街道の町・埼玉③
5000字くらいです。
千住(北千住)を北上すると、荒川がそびえる。
荒川を超えると、足立区へ。
東武伊勢崎線沿いが、今回皆様をご案内する埼玉の東武の中心地。
かつての日光街道で、江戸と日光を結んでいる。現在も東武伊勢崎線で東武動物公園から日光線に乗り換える、さらには先に鬼怒川温泉もある。特急のスペーシアに乗っていく旅も豪華なものだ。
荒川の先に旧日光街道があり間もなく梅島の駅、先には竹ノ塚、毛長川を超えると埼玉県に入り谷塚駅へ。
この先に、日本橋を起点とした日光街道では千住宿を経て2番目の宿場になる草加宿がある。
先は、越ケ谷(越谷)宿、粕壁(春日部)宿だが、旅人は1日中歩き通すとだいたいが約9里(1里=約4km)先の粕壁(春日部)宿で宿泊するようだ。
草加宿
草加というと、「草加せんべい」のイメージが強いだろう。
もともと煎餅(せんべい)に似た、サトイモやクリをすりつぶし一口大に平たくして焼いて食べたものが縄文時代の遺跡から、弥生時代の登呂遺跡には穀物を同じく平たくつぶして焼いた「餅」のような食べ物も発見され、あられやおかきのような米菓は生産されていた(豊臣秀吉も「かき餅」が好物だったと聞く)。
今のような煎餅は、草加宿から生まれたようである。
諸説あるが有名な伝説でいうと、草加宿の団子屋のおせんという老婆が、あまった団子を捨てていたところ、侍に「もったいないから、つぶして(平らにして)焼いて売ったらどうだ」と言われて作られたのが煎餅のはじまりだとか。
もともと、この辺りは足立区や岩槻でも述べたように、地形的には中川低地、綾瀬川に中川などが流れ込む稲作地域だ。
そして街道の陸路と河川による舟運など交通の便が発達したところ。
農家が間食として、蒸した米を丸めてつぶし干した堅餅を、塩でまぶして焼いて食べるという携帯食があった。
これが煎餅として広まったという説があり、さらには千葉の野田は醤油の産地でもあるので、醤油をつけて焼く一般的な煎餅に進化したという。
このような農家の「小昼飯(こじはん、こじゅうはん)」が、伝統料理になることは、秩父の味噌ポテトやそばまんじゅう・たらし焼き・つとっこなどなど北関東にはよくあるようだ。
前回の岩槻木綿と同じく、東武は豊富な水資源や江戸(東京)への物流基地として、織物や染物産業も発達している。
草加は浴衣の生産もさかんであり、または皮革(農耕用や移動用の牛馬が亡くなったときに、その皮革を利用していたと推測する)業もさかんなようである。
資料館を出る。町を歩くのも資料館の延長のようなもの。
草加の歴史街道は、芭蕉と草加せんべいを堪能できる上、綾瀬川沿いに千本松原という景色も楽しめる。芭蕉もこののどかであるが、川と街道による物流と人々の生業、洪水の恐ろしさを感じながら歩いたことだろう。
僕も越谷を目指し歩く。
草加松原こと千本松原へ。松尾芭蕉の「奥の細道」にも一日目として記録されている。
お祭りが開かれており、地元の人にも馴染みの場所だろう。
東武伊勢崎線の草加駅すぐ先の「松原団地駅」だったが、現在「獨協大学前(草加松原)駅」に改名してある。
実は筆者は、大学に上京した当初、この東武伊勢崎線沿いに通学のため住んでいた。
今は西武線沿いだが、東武はなじみあった故郷だ。
東武伊勢崎線の新田駅の先で、綾瀬川はカーブし北西の方角、岩槻方面へ。
川を超えると、越谷市へ。左手の蒲生駅を見てみても、このあたりは蒲が生い茂る場所だろう。
ただ、その先の新越谷駅に隣接する武蔵野線「南越谷駅」にて秋津を経て西武線に帰る。
武蔵野線から東、埼玉は千葉県側の吉川・八潮・三郷の郷土資料館も興味深いのだが、越谷の郷土資料館が見当たらない…。
越ケ谷宿
東武伊勢崎線は越谷市の蒲生・新越谷・越谷・北越谷・大袋・千間台を抜けると春日部市へ、武里・一ノ割を超えると「粕壁宿」の中心地、春日部駅に入る。
筆者は前回②の岩槻取材のあとに、野田線で春日部駅に入るため、越ケ谷宿は割愛する。資料館がないためだ。
ただ以前、越谷駅はアニメ「小林さんちのメイドラゴン」(京都アニメーション)の舞台(聖地)であるため、訪れたことがあるし、新越谷駅は武蔵野線の利用でたびたび利用したことがある。
(以下、越谷市HPをもとに作成)
越谷は、越谷ダルマ(西武も多摩ダルマの生産が多いが、昔は民芸や縁起物としてもダルマの需要が多そうだ)、ひな人形や甲冑細工などの民芸品。
くわい、小松菜、ねぎ。梅林公園の近くに鴨場もあり「鴨ねぎ鍋」も売り出している。
ほぼほぼ、草加や春日部、さらには岩槻まで共通している産業だ。
郷土資料館や民俗博物館を追っていくと、共通点が見えてきて面白い。
粕壁宿
さて春日部へ。
駅を出て春日部市郷土資料館へ向かう途中、春日部の名産品も売られている情報館「ぷらっとかすかべ」が。
ここで推しているのはやはり「クレヨンしんちゃん」(以下、「クレしん」)。インドネシアなどアジア・海外では日本の中でも、春日部はクレヨンしんちゃんで知られている場所らしい。春日部駅の発車メロディーもクレしんだ。
もちろん、クレしんだけでなく、かすかべフード(せんべいや洋菓子、うなぎ。川が多いと川魚料理がさかんで、となりの吉川市はナマズ料理が多いが、やはり売れたのはうなぎのようだ。しかしどうしても、うなぎというと浦和てイメージ…)。
工芸品は麦わら帽子、桐箪笥(たんす)、かざり凧だ。
とくに桐箪笥は、となりの岩槻の雛人形など人形細工とともに、日光の宮大工がこの辺りの桐を利用し箱細工を始めたことが所以らしい。
町並みも、日光街道の宿場あとを推している。
なぜ春日部か。
こんな武蔵七党の間に、さらに紀氏などの朝廷の豪族が流れ込む。わけがわからないよ。
春日部氏は北条時政の下で畠山重忠の乱、新田義貞の下で鎌倉の戦いで活躍。のち岩槻城の太田氏(太田道灌の一族)、さらに後北条氏に仕えるが、秀吉の小田原攻めののち領地を奪われ各地に離散。
のち秀吉は家康を関東にうつす。
徳川により春日部は日光街道の「粕壁宿」へ。
江戸から日光まで150km、これを4日ほどで行くため、だいたいが江戸から一日はこの粕壁宿にあたる。江戸から9里、約40kmくらいだ。
昔の人は、とにかく健脚だ!!
木綿の生産も行われていたようだ。
そんな、人々の憩いの場であり、農作物や工芸品、街道や舟運による物流で発達した春日部。水害も多いわけで。
荒川を超え川口入る手前、東京北区にある飛鳥山博物館にもあった水塚。
川はやはり、多大なる恵みと、人々を襲う水害、さらに水資源を奪い合う利権闘争。
歴史をたどると、以前書いた、関東西部、西武と多摩の水と人々の歴史にもつながる。
終わりに。
ある程度、東武は書ききったと思います。
まあ、これから先、杉戸や幸手、栗橋のあたりまでは行くかも。
日光街道ではないが、さらに東の千葉側にある八潮なども見ていきたいな。
それと、続編でいつか、これまで散策してきた西武(川越とか西武池袋線沿いに東武東上線沿いなど)も書いていきたい。
しかし、そろそろ夏の仕事の繁忙期に入ります。
それに、まだまだ「大山道」と「津久井湖に沈んだ村々」「相模湖に沈んだ勝瀬」など宿題は山積み。
しっかり書き切っていきたいので、どうか皆様、スキやフォローやコメント、リアクションは励みになりますので、とりとめもなく僕がずっと記事で描いている「郷土の歴史や昔の民俗」だとか誰得だよっ!って思うかもしれませんが、昔を今に残し伝えたいという野望がありますので、よろしくお願いします。
けど5000字は長いよねぇ。
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