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大分県写真旅②猿と山を愛でに

大分県の旅、前回は別府温泉地獄巡りであったか。
地獄のあとは何であろう?
地獄とはWikipedia先生によると仏教世界観の1つで最下層に位置し、欲界・冥界・六道、また十界の最下層であるという。
さらに六道の下位である三悪趣は、地獄・餓鬼・畜生と呼ばれている。
地獄、餓鬼、畜生・・・畜生・・・そうだ!猿を見に行こう!

大分といえば高崎山自然動物園。
野生の猿の軍団が間近で垣間見える素晴らしい空間、畜生なんて言ってすみません。
でも子供の頃に神社に高級そうな(資本主義経済的な価値観で)犬(わんちゃん)を連れているご婦人に、「神社に畜生を連れてくるな!」と怒鳴っていたおじいさんを思い出しました。
おじいさんは神道仏教的な道徳世界に生きており、ご婦人はおじいさんの指す畜生を家族と見ているからこそ連れてきたわけで。
宗教的道徳観と現代博愛主義道徳観の狭間で、幼き僕は神社という云ったらただの場所にそれだけの認識の差異があることを知り、それならば賽銭泥棒も存在して然るべきだと思ったわけで。


でもお猿さんは世界中で神様として祀られている。
インドやスリランカやタイを旅した時、好き勝手振る舞う野生の暴風と化した猿の軍団を微笑ましく眺めていた現地の信仰心には驚いた。
だってお供えした美しい花を即座に喰われていたのにね。
まさに場における神性、これぞ人間の文化の礎であろう。
そう思いながら、私はこのお猿さんたちを眺めていた。
人間のことをどう思っているかすら感じさせない自然体、まさにこの場こそカオスであり故に自然なのかもしれない。


猿の群れを眺めるホモ・サピエンス、下から見るか 横から見るか?
我々は猿をどこかコミカルな存在として傍観している。
日光猿軍団の芸はまさにそれだ。
それは猿を「人間までもうちょっと」として擬人化しているからかもしれない。
だが猿から見れば、我々は「猿までもうちょっと」なのかもしれない。
猿が人間のように尊大で傍若無人な自己像を持っていればの話であるが。


だから鐘の下でも関係ないのである。
我々が如何に場に囚われているかということがわかる。
場が持つ意味とは、我々を無意識下で統治している。
コンビニに並んだ美味しそうな食べ物は、その場で食べてはならない。
その意味は人間にしかわからないだろう。
お猿さんの自由なイメージは、場に巣食った法としての抑圧を想起させないからであろう。
逆に問えば、猿にとっての場の意味とは?


意味などないのである。
意味は言語により作り出されたもの、要するに本質的な存在ではない幻想。
そう捉えると、親の言うことを一切聞かない我儘女王の我が娘こそ、汚れた私よりもより意味の本質を理解しているのであろうか?


別府の湯にしこたま浸かり、しこたま大分の酒と海の幸を喰らい、私は畜生のように眠るのであった。
畜生万歳である。


遅きに逸した朝なるものを喰みながら、悠然なる由布岳を見ゆる。
園児の甲高い歓声に、平日休み最高と唸るのは経済奴隷の権利であろう。


私は山に惹かれ、山に取り憑かれた時期もあった。
山は先程の場としての意味を帳消しにする雄大な厳しさを持っている。
山に行けば、下界の意味の錯綜など聞こえはしない。
自身の身躯の限界を超えた先に、本質的な意味を見るのである。
意味とはすなわち、自ら作り出したものでしかない。
意味とは社会や経済や教育やマスメディアにより、そう納得させられたものなのだ。
山の険しい道を馬鹿正直に登ることで、普段の納得の合理性への納得感が崩れていき、気づけば山に囚われるのである。
山に登るというこれほど非経済合理的な行為はなく、生命の危機を僅かに感じながらでさえ、山は私を惹きつけたのである。


そんな若かりし頃の命知らずな山行を思い出しながら、私は横腹を擦るのである。
昨夜、飲みすぎた。
大分の酒、ウマすぎなのである。とり天、美味しゅうございました。りゅうきゅう、美味しゅうございました。
いや〜若かりし頃に山で鍛えた精神は、アルコールの心地よい毒性に魘され、いまや山など車窓から眺めるものになっている。
家族旅行だし、子どもいるし、家のローンあるし、二日酔いだし・・・
山は私から遠ざかっていく。
ああ、旨い酒が飲みたい。
1週間くらい別府の湯に浸かりながら、ひたすら酒を飲みたい。
肝臓が脳を支配した瞬間であった。

続く


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