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大分県写真旅③九州の山嶺に抱かれて

前回に引き続き、大分県の旅。
くじゅう連山に参った次第。
火の国九州のイメージをそのまま具現化したような火山火山した山々。


九州の火山といえば、南九州の縄文人を一瞬にして死滅せしめ、遠く海外まで火山灰を撒き散らした激おこプンプン丸である。
鬼界カルデラの超巨大噴火はそれはもうすごかったらしく、往時のご先祖様たちはポンペイにすらなれなかったのである。
数万年規模で地球の歴史を鑑みるに、日々の生活がとてつもなく幸せであり、そしてそれは一瞬で歴史から消されるほど儚いものであるということを思い知らされる。
我々の「時間」という概念は、非常に我儘で主観的で、それでいてご都合主義なのである。


悠久の歴史の時の流れを感じていると、一昔前のコンデジを構えた娘がいる。
曽祖父、そして父のDNAの洗礼により、ダーウィンも目をみはる遺伝が炸裂している。
普段、知育なる親の言い訳おもちゃを与えても歯牙にもかけない我が娘であるが、RICOH GRを渡したところこの浮かれようである。
カメラは記録するものであり、それは先程の時間の概念があるからこそ成立する。
時間とは一方方向へ過ぎ去り、記憶という頼りなきバックアップにより繋がれた情報でしかない。
だからこそ、我々はカメラで時間を留めているのである。


しかし、その時間の概念は近代西洋かぶれ、砂漠生まれの一神教由来の舶来物である。
輪廻転生というように、東洋の世界では時間は回るものであった。
世界を見渡せば、時間に奥行きがなかったり、方角がなかったり、止まっていたり・・・本来時間というものは多様である。
農耕をすることにより必要性から生まれた時間もあれば、ジャングルに住むことで距離感が圧殺され奥行きという概念すらないために時間が過ごさるということが理解できない部族もいるという。
時間ってのは案外適当なものなのだ。


くじゅう連山のすぐ近く、やまなみ牧場。
北海道じゃないんだから、日本の牧畜はこういった山の麓に多い。
火山性の山のように、近隣が濃厚に農耕に適さない地域は牧草地にされた。
謂わば囲い込みが発生しないことで、我が国は産業革命に出遅れたのである。
しかし、ドイツ同様、出遅れたから近代化が一気に早まったわけで。
そして一気に近代化したことにより、様々な弊害も出ていたりして。
そんな囲い込みにより追い出された農民の悲喜こもごもなんて全く興味なさそうに草を食む羊さん・・・私も反芻したい。


前ボケが映える羊さん、イギリスロックバンドのアルバムジャケットのような雰囲気、そしてモンゴル兵の後塵を拝しながら受けるパルティアンショットを感じさせてくれる広大な草原。


SIGMAのカラーモードで、デュオトーンなるカラフルでポップな代物が用意されている。
今使わずしてなんとするか!
羊の無垢な白色は、このウォーホル的な大量消費社会を皮肉るカラーと相性が良い。
羊毛は人類に必要不可欠な材料であり道具であり商品であったのだ。
この純真無垢に家畜化された人工自然物に塗りたくられた人工的な色の世界、こういうディストピアな写真を撮りたい方にはおすすめである。


そんな御託は良いから、そこの100円で売っている経済合理的にカッティングされた人参をよこせ!


時間が余ったから寄っただけのやまなみ牧場であったが、とてつもなく楽しかった。
牧羊犬ショーで犬の賢さを学び、ソフトクリームは今まで食った中で一番美味かった。
なぜ我々日本人は馴染みのない西洋風牧場に憧れるのであろうか?
広大なスペースを有意義に使う様が、犇めき合うように住まざるを得ない住宅事情を忘れさせてくれるからか?
都市から排除されたウ○コの匂いが自然へと誘うからなのか?
否、たぶんアルプスの少女ハイジのせい!

由布院
現代アートと球を待ち構える少年
どちらが美しいのか?
高額な入場料を払いたくなるチラ見せの奈良美智の犬なのか?
それとも飛んでくるであろう球をイメージしながら暫しの時間を堪える少年なのであろうか?


金鱗湖は観光客で密。
観光地こそ現代アートではなかろうか?
現代アートとは、要するに標識なのであるから。


娘たっての希望でハーモニーランド。
財布の紐をこじ開ける愛くるしいキャラクターたちの誘導尋問、恐るべし!
クロミちゃんかわいい。


そして地図曰く九州と本州の境界線。
そこに国境はなかった・・・などとよくいうが、高速代金という名で関税を徴収されている。
九州は自然が美しい、酒もうまい、運転は荒い、人は優しい。
地域性は自然に溶け込むのか、それとも都市計画?いやいや、経済的な交流度?うんにゃ、訪れた人によるのであろう。
とりあえず良い湯に浸かり、旨い酒を飲み、娘に「九州行ったことあるよ」と自慢させられるだけの刹那的消費経験を与えることができた。
旅は脳内マップに色を塗っていくことである。
近代の旅とはまさに世間的に用意された到達目標を時間と金に追われながら追いかける消費勧誘レジャー、要するにスターリンの保養地と変わらない。
現代人の時間の概念はパッケージ化され、どう使うかが至上命題とされている。
そんなに急に死ぬことは少ないだろうし、休みの時間はある程度計算できるし、老後の旅行のために貯金する?
これぞ、我々の時間の象徴である。
生きているだけで時間の中にいるという壮大な勘違い、そんなのこの100年くらいの幻想だ。
しかし小市民よ、世知がなくしぶとく生きるために「与えられた時間」を消費せよ!
だからこそカメラを持つのである。
写真はそこに確かにいたことを保証してくれている。
まさに生きる実感のない世界で生きていたことが証明されたのだ。


時間はカメラの中にある。

ようつべで動画あげてます。

国東半島写真旅

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