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大分県写真旅①別府温泉地獄巡り

大分県の旅
旅、それは非日常に時間とお金という現代の価値の殆どを占める幻想をフルベットすることで、くだらない日常を忘れようとする営みを云う。
要するに経済に縛られた日々のやるせなさのガス抜き、それは明日の労働のための活力、そう我々はお金の奴隷・・・
だからこその温泉ですよ!
ということで、大分県は別府市周辺を家族旅行。
奴隷は酒を飲ませて湯につけておけば良いのである。


別府地獄巡りという名の天国巡り。
温泉と酒をこよなく愛する私は、この湯気ととり天の国で酒を飲み、あわよくば善き写真を撮ろうとSIGMA fp & Leica summilux 35mm 2ndを手にしている。
旅するLeicaである。
もちろん「インスタ映えするハーフモデルなんかが撮るるるぶ要素強めの蜷川実花風エモい写真」などは撮らない。
私の実存的な存在、オートポイエーシス的な印象、そして紛うことなきアプリオリな私を撮るのである。要するに旅写真とは、軽いカメラと語れるレンズがあれば良いということをおフランス哲学的に申し上げてみた。


別府温泉はこの農耕に適さない厄介者でしかなかった「地獄」を観光名所に変えた。
明治以降の近代化により、お伊勢参り以外の「観光」という必要性が生まれたのだ。
近代日本の観光地として総初期から君臨する地獄巡り、ネーミングセンスといいどこか廃仏毀釈を免れたサムライジャパンの残り香がする。
どうりで観光バスが多いわけだ。


温泉に浸かることを好む民族というのは、以外に少ない。
中でも日本人は殊の外温泉を好む。
温泉大国ではあるのはもちろんだが、信玄の隠し湯はいくつあるのだろうか?
文化人類学的視点から鑑みるに、自然と労働観念とケガレ的な何かが影響しているのだろうか。
そんな文化人類学的考察をしながら歩いていると、周りは異国の方たちばかり。
そういや例の流行り病の影響が薄れたことにより、身より実を取る政策が発動した直後であった。
グローバル化は温泉という概念を広めているのか?もしくはこの景色の地獄感は万国共通な観念なのか?


いかんいかん、せっかくの休暇である。
無駄な脳みその使用はコスパが悪い。
この九州の温泉=あったかそう=南国という幼児のしりとり的連想ゲームで導き出された南国感を味わう施設で頭を冷やす。


この景観、なかなかである。
南国の象徴的な植物に吸い寄せられるドリフ的な湯気、昭和である。
昭和の銭湯の世界がまさにここにある。健康ランドの元祖ではなかろうか?
やはり体を休める=南国なのであろうか。
そういえば芸能人が一番混み合う時にハワイに行くのもまさしくである。
それも昭和?


地獄といえば鬼である。
某国民的鬼殺隊の冒険譚によって脚光を浴びるあの鬼像とは打って変わっての水木しげる的貸本漫画鬼のそれである。
鬼は世界中の神話や民話に同じような出で立ちで存在する。
日本の鬼は、たたら製鉄に携わる山の民や縄文人の生き残り、果ては漂流西洋人なんて説まであるが、要するに異界の住人。SDGsでダイバーシティな多様性の現代においては仲良くすべき対象ですらある。
そもそも鬼にされた人々にも生活圏はあったはずなので、謂わば鬼とは歴史の敗者なのである。
ああ悲しいかな鬼よ。その昭和な鬼のイメージこそ、判官贔屓な哀愁があるではないか。

そんな鬼を祀る地獄には、カラフルな温泉が点在する。
なんでまた人間は原色な自然物に興奮するのであろうか?
ただのプレートテクトニクスのいたずらにより湧いた湯であるにも関わらず、この他に見ないどぎつい色の湯に萌えるのである。
青なら良いのか!青だから良いのか?
三原色に支配された世界を見る我々を見る四原色の世界の住人の鳥さんはどう世界を見るのか?


ワニ、南国という記号を簡単に、そしてよりホットに与えてくれる記号。
レヴィ=ストロースは野生の思考でブリコラージュを語ったが、まさにこの人工の自然物としての記号的消費における南国感、これぞ構造と力である。
しかし、僕のような山陰人はワニといえば因幡の白兎である。
器用に歯だけで生皮を剥ぐワニは、服部文祥を彷彿とさせるが、あちらはワニはワニでもサメである。
岡山の山の中ではワニとしてサメを食すようだ。
ワニとサメが入り乱れるこの数行の駄文で、世界の広大さを知る。
これぞ別府の持つ魔改造南国感なのであろうか。


血の池地獄、数ある地獄の中のオリエンテーションにおいていまいち罪を報いるための辛さが薄そうな気がするが、見た目のインパクトはやはり出血大サービスである。
赤色というのは、生命維持における死亡フラグ筆頭であるがために、どこか良い気分がしない。
なぜか瀉血療法というWikipediaのおもしろ記事を思い出した。
モーツアルトやワシントンを葬ったといわれるトンデモ医療だが、たしかに人間の中身は殆ど水分なので理にかなっていそうな気がするのはホモ・サピエンスの宿痾なのだろうか?
だが温泉の素は買った。


もうもうと立ち込める湯気と硫黄の香り、まさにこれぞ地獄であろう。
地獄というものは法や人権倫理のない殺伐とした時代の道徳規範のOSである。
要するにお天道様が見ているのである。
ホモ・サピエンスは監視されないと何をしでかすかわからない。
その高いコミュニケーション能力が故に、監視という名の権力を生むことでダンバー数を超える集団を形成し、文明を築いた。
しかしフーコーの云うパノプティコン的な監視により、我々は常に有機質・無機質の視線を浴びている。
だからこそ旅が必要なのである。
旅は飽き飽きするほどの視線を浴び続けるいつもの環境から抜け出し、観光客としてのカテゴライズを受肉することで、視線を浴びるだけでは無い者になれるのである。
観光地は人々を導き、楽しませる環境である。
故に観光客は楽しまされる対象である。
この倒錯的な自己欺瞞により、日々の生活から抜け出たという感覚を得ることができる。
だからこそ写真を撮り、そこにいた記録を渇望する。
それは日々の生活からいつでも抜け出そうと思えば抜け出せるという宣言であり、だからこそ日常に埋没した自己の哀れな姿を忘れることができるのである。


旅の雑文は続く。


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