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福岡写真旅 Leica M monochrom & RICOH GR 都市スナップとは?

福岡県というか、博多・天神辺りをLeica M monochromとRICOH GRで写真旅。
福岡県、割と近い都会ながら、殆ど行ったことがなかった。
やはり鎮西の乙事主のように海を渡るというのは、心理的な徒労感というものはあるのだろうか?
久々の大都会ということで、とりあえず我が家のスナップカメラを手にしてみたところ、あえなくモノクロ写真縛りの旅になったのはいつもの御愛嬌。

エゴだよ、それは!
ブライトさんに張り手食らわされるくらいモノクロどっぷりスナップ旅になったのであるが、まあνガンダムは伊達じゃないね。
都市スナップ=森山大道という僕の価値観はオールドタイプであるのは言うまでもないだろう。
ホワッとしたカラーのボッケボケのエモいスナップ写真が最近のニュータイプらしいが、ミノフスキー粒子が濃すぎて僕の琴線に触れることはない。

都市は人工物に覆われている。
そこにはつまるところ、経済合理性のブロックでできたパーツの集積、それが大なり小なりあるだけである。建築もインフラも公園も、合理的なパーツの組み合わせ、それを如何にセンスよく飾り付けるか、それが都会の人々が集まるスポットである。
でなければ、安藤忠雄の建築は成り立たない。
ド田舎者が思うに、大都会とは茶番を茶番として意識せずにスクラップ・アンド・ビルドしているという茶番を演じている人々の経済劇場である。
不要なものに溢れ、過剰だからこそカルチャーが生まれ、それもまたより過剰なものに壊され、しかし同じようなものがまた作られる。

こうした茶番を眺めるために「はとバス」のようなものがあり、外国人も母国とは違う毛色の茶番を眺めにやってくる。
はぁ〜スタバも無ぇ、映画館も無ぇ、新幹線も無ぇ、ユニクロも無ぇ、なド田舎者からすると、都会とは茶番の大小、浅い深いの違いしかないのである。90年代までの都市には血湧き肉躍る個性的な匂いがあったらしいが。

ある一定の厳格なルールに注ぎ込まれた金により生まれた赤ん坊のような巨大都市は、いつまでも子どものまま旺盛に破壊と再生を繰り返し、人々は変わらずそこに集まっては帰っていく。
ド田舎における終わりなき日常の諦めを諦めさせない幻覚剤が散布されているのである。

都市スナップの醍醐味とは、その輪廻を否定し、忙しくしていればすべてが猛スピードで過ぎ去っていくからこそ大事なものを見逃さないという確信という本末顛倒な状況を写真として切り抜くことであると思う。

つうことで、都会最高!飯うめえ!
とりあえず生!じゃなくて、もつ鍋っしょ!
いや〜都会は飯もうまいし安いし早くから開いてるし、最高だね!
昼間っから酒飲めるもんね!
いや〜都会最高!

ということで、都市を撮るとは終わりなきスクラップ・アンド・ビルドで絶えず変化せざるを得ない状況に追い込まれた土地とそこを移動する人々の奇妙な並走感、これである。
森山大道の撮る都市は、並走できない・しない人々の得も言われぬ姿であったが、ド田舎生まれの僕が撮りたくなる瞬間はこの並走感である。
ここに社会の、そして人間の生と業が同時に光を放っていると思うのである。
そして都市スナップは酒を飲みながらできるのが本当に最高なのである。


天神に飛ぶ!
とりあえず屋台行ってラーメンとビールだろ!
福岡といえばそれしか頭に浮かばない観光脳だが、しかしそれは我慢できない。

夕刻も近づき、ビジネスマンと外国人観光客が道を行き交う。
そして福岡はみんな信号を待つのね。大阪行ったときとは大違いである。

屋台が開くまで天神をぷらぷら。
少々酒も入っているので、自己満琴線ペロペロ写真がよく撮れる。
酔拳ならぬ酔撮である。
Leicaで撮るともちろんマニュアルフォーカス。今回のレンズは35mmだが、ちょうどよかったと思う。
どうもLeicaだと適当に目測ピント合わせでパシャパシャやってもブレッソンのようにはいかない。
ちゃんとレンジファインダーを覗いてピント合わせして、意識して写真を撮る。しかし、最新のカメラと違って一呼吸も二呼吸も遅れる。
でもその遅延ゆえに撮れる写真が良かったりする。
考えてみたら時間は一方通行ではなく、後ろからやってくるものであった・・・と気づかせてくれる。

GRで撮るともう気分は森山大道だ。
ノーファインダーでパシャパシャしている。
なぜか打率も高く、それでいて量も多い。
意識と無意識の中間くらいの感覚で意識して撮るようにしている。
意識を排す方向へ自らの写真を持っていこうとした森山大道と中平卓馬であるが、それは失敗に終わった。
写真を撮るという行為に意識は絶対的に存在している。
だからこそ、ボンヤリと撮る。しかし動物的な感で。
この辺が落としどころだろう。無益に言語化してしまうと、写真は撮れなくなってしまうのだ。身体的にも、精神的にも、である。
GRはそこの辺をよく考えて作られたカメラ、というかそこの辺の用途になんとなく合っていたのだろう。

つうことで屋台に来ました!が、インバウンド消費エグい!
日本人より圧倒的に外国人観光客だらけ。
純粋ド田舎日本人と訪日観光客は同じところを目指すのね〜とほほ。
ちょっと並んでラーメンとビールを喰らう。
世界旅行中、屋台には大変お世話になった。
東南アジアの屋台は最高だったなあ〜
屋台の匂い、喧騒、調理する音、酔っぱらいの声、すべてが小気味よいアクセントとなって酒がうまい。
タイのように小さな経済圏に決まって屋台があるような日常も楽しいと思うのだが、ずいぶん潔癖症になってしまった日本人には厳しいか。
タイに行ったときに日本基準でドブ川の水で皿洗ってたかわいい女の子を思い出す。
「ちなみにこの皿も!?」と聞きたいようで聞きたくなかった初夏のアユタヤ。

不夜城天神!
久々に夜でもこんな人通りがあるところに来たので面食らう。
本日のカメラは夜になるとほとんど活動できないので、カメラはしまって今度は肝臓の赴くままに・・・

BAR ポートベロー

BARですよ!
先ほど肝臓といったが、肝臓は被害者だから脳か。
脳の赴くままにBARにやってきた。
最高のひとときであった。


翌日は小雨、地下街を駆使すれば濡れずに歩けるコンクリートジャングル。
そしてジャングルは得意なのにコンクリートジャングルになると点で駄目な僕はひたすら迷うのであった。

今回はひたすら都市の中を彷徨い歩く旅であった。
たった1泊2日で疲労困憊、やはり都会の生活に僕は耐えることができない。
世界を旅して思ったのもひとえにこれである。
田舎は好きではないが、都会は住むには過酷すぎる。
して、結論は安く田舎に住み、日々都会に憧れつつ、極稀に行ってはもうたくさんと田舎に帰る。
これぞ我がライフスタイルのファイナルアンサーであった。
なので写真にもそれが現れているように思う。
都会の緊張感やストレスといった負の部分、そして都会への憧憬、しかし田舎への郷愁。
森山大道のギラギラした写真とは違う、おっかなびっくりの写真だが、だからこそモノクロが良いと思う。
長渕剛的花の都への挑戦状としての写真と田舎者の観光写真の中間、その辺りに位置する写真がどうも好きなようだ。


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