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岡潔・小林秀雄・本居宣長・三島由紀夫

ここ最近は岡潔のエッセイを集中的に読んでいる。岡潔の思想が情としてわかれば、小林秀雄、本居宣長、三島由紀夫の思想もわかるようになるだろうと見込んでいるためである。

岡潔のエッセイについて

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岡潔を読むならば、角川ソフィア文庫に頼るのを薦めたい。角川ソフィア文庫では、岡潔のエッセイ集が5冊も出版されているためである。

『春宵十話』『春風夏雨』『一葉舟』『風蘭』『夜雨の声』

特に太字の2冊は書店で入手しやすい。
この中でも『春宵十話』は最初に読むのにうってつけだろう。

岡潔の中心思想である「無明」について、数多くの具体例を挙げながら論じているためである。「無明」とは、仏教における「小我」の状態のことを指す。あるいは「自己本位」の状態だと言ってもよい。夏目漱石の『明暗』や井上靖の『敦煌』、芭蕉の俳句、ピカソの絵といった馴染み深い作品を例にとりつつ、このことを解説してくれる。

岡潔の脳理論について

岡潔はよく「情緒」や「情」が肝要であると主張する。この点については私も納得している。しかし、「情緒」や「情」を脳科学と関連させてしまうことが解せない。【自身の中心思想を短絡的に自然科学と結びつけてしまった】ように見えるからだ。

特に『人間の建設』では、「自然科学は破壊しかしてこなかった」と語ったにもかかわらず、自然科学の語彙・文法で「情緒」や「情」を論じようとしたのは迂闊ではないか?

ベルクソンの業績に倣っていることは容易に察せられるが、自身の思想をみすみす自然科学に差し出してしまう点には違和感を覚えた。

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岡潔から小林秀雄、小林秀雄から本居宣長へ

今まで岡潔に批判的なことを書いてきたが、決して嫌っているわけではない。むしろ脳に関する記述を除けば、著者の言説は説得力があると思っている。特に、同じ学問をずっと続けて無意識に馴染ませていくやり方は、実に効く。現代において素読はひどく馬鹿にされるが、何かを習得するのに手っ取り早いのはやはり素読の繰り返しであろう。

小林秀雄も『人間の建設』においてそんなことを語っていた。そして彼の思想的な源泉は、本居宣長にある。つまり、岡潔の思想がわかれば、小林秀雄の思想がわかる。小林秀雄の思想がわかれば、本居宣長の思想がわかる。必ずしも一本道だとは限らないが、進むべき方向としては正しいだろう。

最終的には本居宣長の「もののあはれを知る」ことを理解して、現代を生きるための糧としていきたい。時間は掛かるだろうが。

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岡潔を通して三島由紀夫『豊饒の海』を読む

岡潔のエッセイを読んだことで、また三島由紀夫『豊饒の海』への理解が進んだような気がした。

『豊饒の海』は、『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の4巻から成る。この内『春の雪』と『奔馬』とを傑作として挙げる人は多い。しかし『暁の寺』『天人五衰』を傑作として挙げる人は少ない。

岡潔のエッセイを読んで、この理由が掴めた気がする。
文明の発展や真善美の追究には、ほんの少し無明が必要である。岡潔はそう述べている。ピカソの絵は無明を写し取っているからこそ、あれだけ人を惹きつけるのだ、とも。つまり、美には少々の無明が必要なのである。

これは三島とて例外ではないし、むしろ三島はその無明を『奔馬』に至るまで使いこなしてきた。三島は自身に重力を課して、無明の地面から浮き上がらないようにしていたのだ。美を描き続けるためである。

ただ、『暁の寺』からは自身に課していた重力を緩め、離陸した。『天人五衰』では、無明の地平を離れ、ついに遠くへと飛んで行ってしまった。その意図に関しては、あれこれと仮説を立てられるが、正確なところはまだまだわからない。

ともあれ、多くの人々にとって『暁の寺』『天人五衰』よりも『春の雪』『奔馬』の方が楽しく感じられるのは、無明のせいかもしれない。

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