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📖リスペクトル『星の時』を読む①

クラリッセ・リスペクトル『星の時』。詩的な文章によって、マカベーアという女性の生涯が綴られていく。また、本作では時々〈書き手〉が顔を出す。〈書き手〉と言っても、著者のリスペクトルのことではない。あくまでもリスペクトルが造り上げた架空の男性作家である。

「この小説の構造についていけるかどうか?」によって、読めるか否かが変ってくるように思う。

ともあれ、あらすじを見ていこう。この記事では『星の時』の結末にも触れる。(該当箇所の引用もする。)ネタバレは避けられないので、ご注意願いたい。

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あらすじ

簡単に言えば、「自身の不幸を自覚していない女性の悲惨物語」ということになろうか。主人公はマカベーアという女性である。彼女の話を裕福な男性である〈書き手〉が綴っていく。

マカベーアという女性はスラム街に住んでおり、親から碌な教育も受けられなかった。叔母からは暴力を受けていた。また、彼女は何も知らなかった。世渡りがうまいわけでもなく、機転が利くわけでもなく、生きていくための知識もなかった。それも、自身の不遇ぶりを自覚できない程である。

小説ではそんな女性の日常と〈書き手〉の身の上話が続いていく。だが、あるとき、〈書き手〉はマカベーアが占い師に「人生が好転する!」と告げられる。だがそんなことはなかった。彼女は交通事故で亡くなってしまったからだ。小説はマカベーアの死に対する〈書き手〉の所感とともに終わっている。

ただ〈書き手〉の書き方は、マカベーアの悲惨さをうまくかき消しているという点で、秀逸である。一方で、そこが問題にもなる。マカベーアが道化として描かれているようで、不快感を覚える読者も少なからずいるだろう。「〈書き手〉はマカベーアのことを馬鹿にしている。」ネットの書評ではそんな意見もよく見かけた。

……男性の〈書き手〉の存在意義はどこにあるのか? 本作の読者の多くが疑問に思うところだろう。この記事では、自分なりの答えを提示したい。が、そう簡単に語れるものでもない。遠回りな説明になるが、どうぞお読みになっていただきたい。

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マカベーアの印象

マカベーアはどんな人物だろうか?

私の乏しい読書経験から語れば、彼女は森鷗外『高瀬舟』の喜助に似ているかもしれない。貧しい生活を送りながらも、彼の心の中は澄んでいる。読者は喜助の心中の清々しさに触れ、心打たれるわけであるが、この作品でもそうだ。健気なマカベーアに心打たれる。

時代が時代ならば、自身の苛酷な運命を嘆かずに生きてきた聖女清貧を貫いた聖女として名を連ねていたかもしれない。あるいは、もっと長生きしていれば、マリリン・モンローのようなスターになっていたかもしれない。もしかしたら聖母マリアのような存在にもなりえただろう。

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マカベーアとマリア

本作を読むと、聖母マリア伝説との対応に気づく。このシーンは最も象徴的である。

 言い忘れてたけれど、しおれたようなマカベーアの体が、無限に近くきわめて豊かな生の息吹を秘めていたこと、単為生殖で妊娠した処女のような巨大な生の息吹を抱えていたことは、じつに驚くべきことだった。
――リスペクトル『星の時』河出書房新社 p.114 太字は水石

「単為生殖で妊娠した処女のような」という比喩は、処女懐胎を連想させる。処女にして身ごもったマリアの話を彷彿させるのだ。下記の箇所もそうだ。少々引用してみたい。

でもルームメイトたち――マリア・ダ・ベーニャ、マリア・アバレシーダ、マリア・ジョゼー、そしてただのマリア――は、それを気にかけなかった。
――『星の時』 p.53 太字は水石

ルームメイトは皆「マリア」という名を冠している。こうもマリアが立て続けに出てくることを、私は単なる偶然とは見なさない。リスペクトルが仕掛けたものだと捉える。

白状すれば、見抜けていない(マカベーアとマリアの)共通点は、作中にまだまだ潜んでいると思う。だが、この程度の符牒でも、聖母マリア伝説と『星の時』とが切り離せない関係にあることは、ご理解いただけるだろう。

これを念頭に置いて、次は結末を見ていきたい。

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交通事故をどう解釈するか?

この小説の終盤にて、マカベーアは交通事故に遭い、亡くなる。人間の死を無闇に物語や解釈に巻き込んでしまうのは、忍びなく、気が引ける。しかしやらねば話が進まない。ひとまず結末を引用してみる。

 愛のさなかに感じるような、繊細で、ぞくっとする、凍りつくような、鋭い快感。これは、あなたがたが神様と呼んでいる恩寵だろうか? どうだろう? もし彼女が死ぬなら、死のなかで彼女は処女でなくなり、女になる。いや、死ではない。ぼくは彼女の死を望まない――ただの交通事故で、それは惨劇でさえない。生きようとする彼女の努力は、処女だった彼女は経験していなかったものの、少なくとも直観はしていた、あることに似ていた。
――『星の時』p.165

【交通事故によって、マカベーアは体全体で破瓜してみせた】ということらしい。このことをどう解釈するか? 2通りの解釈に大別できよう。

1.破瓜したために、マカベーアは聖母としての資格を失くした。
当然ながら、処女でなければ処女懐胎は実現しない。過酷な運命の果てには何もなかった。マカベーアの人生はただそれだけだった。マカベーアは身ごもることもなければ、出産することもない。聖母マリア伝説との照応を考えれば、新たなるイエス・キリストが産まれることもない。

さて、上記の描写はどこかバタイユ的である。死と性愛とが結びついているからだ。だが〈書き手〉の男が、あるいはリスペクトルが、描きたかったのは本当にそれだけだろうか?

2.マカベーアはこの時点で聖母となった。
私はこの解釈を推したい。勝手なことではあるが、彼女はこの時点で聖母になったと思いたい。もちろん、亡くなる運命にある彼女が人間を産むことはない。キリストも産まれない。

だが、本当に報われなかったのか? 下記の引用をご覧になっていただこう。マカベーアの今際の言葉から。

「未来のことは」
 彼女は未来を恋しく思ったのだろうか? ぼくには饒舌な古い歌が聞こえる。そう、そんな感じだ。まさにそのとき、マカベーアは胃に深い気持ち悪さを感じて、吐きそうにさえなった。自分の体ではないもの、光を発する何かを吐き出したかった。千の鋭角を持つ星を。
――『星の時』p.166

マカベーアは「千の鋭角を持つ星」を産んだ。そして〈書き手〉はそれを目撃した。彼女は確かに聖母となったのだ! そういう風にも解釈できる。救いはなかったが、祈りはあった。少なくとも、彼女は〈書き手〉に見届けられた。彼女が望んでいたのかはともかく、マカベーアは〈書き手〉の視点から”聖母”となったのかもしれない。

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〈書き手〉は誰なのか?

今まで散々マカベーアについて言及してきた。が、彼女を語ってきた〈書き手〉は果たして誰なのか? 次は、この〈書き手〉について記したい。

〈書き手〉は、裕福な男性作家で、ロドリーゴ・S・Mと名乗っている。作中にはそれ以外の情報も書かれていたかもしれない。しかし、私には「彼が作家である」という情報にしか関心がない。そのため、これ以上、彼に関する情報は言及しないことにする。

さて、彼も作家であるゆえか、やはり〈書くこと〉について関心を向ける。彼の〈書くこと〉に関する記述を引用してみたい。

 すでにほのめかしたように、ぼくは文章を少しずつ、より単純にしていくつもりだ。というか、ぼくが使う素材はあまりにも慎ましく質素なものだ。登場人物たちについてのわずかではっきりしない情報は、ぼくのなかを痛ましく巡っている。そしてその作業は大工みたいだ。
――『星の時』p.17 太字は水石

〈書き手〉は〈物語を書くこと〉を大工作業だと形容している。「大工」。イエス・キリストの養父(ヨセフ)も大工であった。つまり、聖母マリア伝説との照応を求めるならば、〈書き手〉はヨセフということになる。

そう解釈してみると、〈書き手〉は必ず男性でなければならない、ということになる。また、彼にはマカベーアが吐き出した星を育てるという役割があるのかもしれない。彼は養父であるからだ。

……と、〈書き手〉の正体が明らかになったところで休憩としたい。次回はこの記事の内容を踏まえて、作品全体の印象を述べていく。

謝辞

この作品を私に紹介してくださったジャブジャブ氏に感謝を表したい。また、読書会にもご参加くださり、誠に感謝申し上げる。

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