見出し画像

作家の印象論 Ver. 2~味を占める

 まあまあ評判が良かったので、今日もこれで行こうと思います。前回はこちらから。

島崎藤村

 スタンダードな文体の作家は炭水化物で喩えるようにしている。そして自然主義の作家はおおよそ蕎麦にしてしまう。というのは、各々かなり赤裸々な作品を書いているので、アレルギーを持っている方も多そうだからである。島崎藤村でいえば、『新生』がそれに該当するだろう。
 藤村の文体はやはり信州そばの味がするのだろうか。そんな気がする。表現は平易なのだが、会話に感動詞を多用し、文末表現も特徴的である。文章をパッと出されたら一目でわかるぐらい香りが強い。
 ちなみに島崎藤村の本名は島崎春樹である。ということで次は同じハルキの印象論。

村上春樹

 こちらはカレーライスのような文体であろうか。彼の文章は翻訳調でありながら、まったく抵抗感がない。スラスラと読める。不思議だ。たぶん彼の文体があまりにも世間に浸透したせいかしら。だから今や国民食のカレーライスで喩えた。
 そして彼の作品を読んでいて印象的なのは、古典文学作品がしっかりと出てくることである。『海辺のカフカ』では上田秋成の『雨月物語』が、『騎士団長殺し』では同作者の『春雨物語』が登場する。
 現代の小説家は近代の作家への尊敬は十分にある。しかし古典に関してはどうだろう? 現代の作家は古典作品の面白さを作品に取り入れているだろうか。

太宰治

 肉じゃが。太宰治は古き良き家庭料理・肉じゃがである。これについては絶妙なチョイスだと思う。彼の文体はなんとなく書けそうな気がするのだ。(書けそうな気がするだけ。)平易な言葉で感情の赴くままに筆を走らせたように見えるから書けそうな気がするのだ。
 肉じゃがもそれは同じ。とりあえず作れるけれども、サジ加減を把握しないとジャガイモに味が染みなかったり、肉が固くなりすぎたりする。最適解を見出すのは難しい。
 次は太宰と同い年の中島敦。

中島敦

 教科書に採用されやすい作品を書く作家は定番の料理に置き換えてしまう。太宰しかり。
 中島の場合は有名店のラーメンということになる。彼の文体は現代人には到底マスターできそうにない。しかし漢語でガチガチに固められた、高圧的な文体というわけでもない。ほんの少しネクタイを緩めたような遊びを含み、読者にユーモラスな印象をも与える。

井上ひさし

 こちらはユーモアを前面に押し出した作家。大阪出身ではないけれど、たこ焼きみたいな作品を書く。軽食のようでずしっと来るような文章を書くのだ。
 とくに遺作『一週間』はすごかった。この作品は、ソ連を舞台にレーニンの手紙をめぐって攻防を繰り広げながら、主人公が命の綱渡りをする作品である。緊張感がありつつも、それでもなおユーモアは失われない。ユーモアとシリアスの配分が実に巧妙なのだ。読書中にそう思った。
 このユーモアとシリアスの調合は彼の得意とするところであった。『ひょっこりひょうたん島』も裏にはビターな設定を用意している。それが作品にコクを生むのだ。

安部公房

 ひと昔前のカップラーメンのような文章。(最近のインスタントラーメンはおいしくなりすぎてしまった。)無機質だけど嫌いになれない、それが凄い。『箱男』や『他人の顔』に関してはその無機質さが顕著である。
 だから安部公房が苦手だという人は、さっき挙げた作品よりも『砂の女』や『方舟さくら丸』の方に挑戦してみてはいかがかと。

横光利一

 戦前から活躍している作家の中で本当はかなり理系に近い作家だと思う。『機械』ではネームプレート工場の社員、『微笑』では帝国大学の数学博士が出てくる。それも単なる職業として設定されているわけではなく、その属性が登場人物の心理に食い込んでくるのだ。
 また横光は無生物の描写が素晴らしい。
 大学受験の英語では、無生物主語が含まれている構文はかならず無生物が主語にならないように意訳するというルールがあった。(今もあるのかしら?)日本語として不自然だからという理由でそのように翻訳しなければならないのだ。
 しかし横光はそれをあえて無視して、無生物を主語においてみたり、独特な比喩を案出していたりする。これが日本語の文章の幅を広げた。現代の読者が横光の文を読んでも、そこまで違和感を抱かないだろうと思う。彼がそのような文章を普及させた結果なのだ。

さいごに

 今回は作家を前よりは丁寧に掘り下げてみた。どうだろう? やはり3行ぐらいで紹介するのが、気楽に読めるかしら。作家はまだまだいるのでこのコーナーはしばらく続けられそうだ。
 次回は海外の作家も入れていきたいなあ。

この記事が参加している募集

読書感想文

平素よりサポートを頂き、ありがとうございます。