📚冬に読みたくなる作品⛄
もうそろそろ冬だ。
冬が近づいてい来ると、村上春樹の初期作品やドストエフスキーの小説を読みたくなる。季節によって、特定の作品を読みたくなるのだ。
ツルゲーネフ『はつ恋』
今のシーズンであれば、ツルゲーネフ『はつ恋』を読むと沁みるものがある。緑が寂しくなり肌寒くなる時期に読む『はつ恋』は本当に面白い。これ以上寒くなったら、寂寥感が勝ちすぎて、かえって読むのが辛くなってしまうだろう。
二葉亭四迷や国木田独歩も、この短い秋のうちに読んでしまうのが吉なのかもしれない。
村上春樹からシベリアへ
12月になったら、村上春樹『羊をめぐる冒険』をまた読み返したいと思っている。あの小説の山場も冬にある。舞台も北海道だ。凍てつく大地に失ったものを求め、登場人物は冒険をする。それが冬の心理とよく合っている。
『羊をめぐる冒険』を読み終えたら、今度はドストエフスキーが恋しくなってくるだろう。井上ひさしや山崎豊子も良いかもしれない。『羊をめぐる冒険』の舞台は、冬の北海道であった。一方、ドストエフスキー『死の家の記録』や井上ひさし『一週間』、山崎豊子『不毛地帯』の舞台はシベリアである。先に挙げた『羊をめぐる冒険』が、シベリアを舞台にした作品への案内・通路になっているような気がするのだ。
ただ、「冬になったらドストエフスキーを読みたくなる」という感覚は、あくまで日本に住んでいるから生じるのだろう。当のロシアでは、積雪のせいで、ぶらぶらと外を出歩くわけにもいくまい。モスクワやサンクトペテルブルグで読みたければ、むしろ夏に読んだ方が、味わい深く思えるのかもしれない。
埴谷雄高『死霊』
冬は汗をかかなくて済む。場合によっては汗をかくかもしれないが、真夏よりはよほどマシだ。世の中には汗をかかずに読みたい小説もある。
たとえば、埴谷雄高の『死霊』もその一つだろう。『死霊』に出てくる「虚体」を理解するには、どうにも汗をかいてはいけない気がする。なるべく読書中に、読者の身体感覚をかき消す必要が出てくるように思うのだ。
そういう意味では、冬に読みたい小説の一つに入るのかもしれない。
正月になったときには
正月に読みたくなる小説は、また別にある。尾崎紅葉『金色夜叉』や太宰治『津軽』、川端康成『雪国』などが良いだろうか。これらの小説(エッセイ)は、同じく冬の作品だとしても、なにか”暖かい冬”を連想させる。物語の筋が暖かいというわけではない。が、そこはかとなく懐かしい。
『金色夜叉』の冒頭は、三が日の終わりから始まっていたように記憶している。この文章を読んでいると、年明けの感覚が甦ってくる。
未だ宵ながら松立てる門は一様に鎖籠めて、真直に長く東より西に横はれる大道は掃きたるやうに物の影を留とどめず、いと寂さびしくも往来の絶えたるに、例ならず繁き車輪の輾は、或は忙かりし、或は飲過ぎし年賀の帰来なるべく、疎に寄する獅子太鼓の遠響は、はや今日に尽きぬる三箇日を惜むが如く、その哀切に小き膓は断たれぬべし。
――尾崎紅葉『金色夜叉』青空文庫
コタツに入りながら、テレビで初詣に向かう人々の姿をボーッと眺めている自分の姿が思い浮かんでくる。それも、文章が描く光景と同時に。
作家・作品と季節感というのは、重要なテーマかもしれない。自分なりに作家・作品の「歳時記」を編んでみると楽しいものがある。
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