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世界は、偉人でまわっているわけではない。『ナディアの誓い - On Her Shoulders』

『On Her Shoulders』という原題は、皮肉なまでの逆説か。

二つのことが描かれていると思う。一つは、ヤジディ教徒の苦境と、その認知や支援が少しづつ広がる様子と、厳しい現実。

もう一つは、一人の村の女性が、性暴力被害者・難民となり、声を上げれば活動家となり、希望とよばれ、やがてノーベル平和賞に至る道。

センセーショナルな映像を避け、内面に迫るインタビューを織り交ぜて作られているので、後者に関心を持つ人が多いかもしれない。

全てを失い、言葉にならない凄惨を経て、癒えぬ悲しみを抱き、その現実を今も生きる人が、それらを語り伝えるとは、どういうことか。

「村娘に戻りたい」「私は活動家じゃない」「もう限界」というナディアの言葉や、「ナディアは本当に強い人だけど、、でも」という支援団体代表の言葉が響く。それでも「私は無数の人々の声になる」と誓って活動を続けることで背負うものの重さたるや。

だから、『On her Shoulders』。「彼女の」肩にのしかかるものについての映画、、、。

そう解釈するのは違うのでは、と思う。

人々の苦しみや祈りとか、世界の歪みとか、そんな凄まじいものを肩に負って、ナディアはすごい・・・、というヒロイン映画ではないはず。

そうではなく、私たち誰もが全員で背負うべきものを、過分にナディアに背負わせている。彼女の肩にのっているものを、私たちも担えるはず。いや本来は担っているはず。

『On Her Shoulders』のままでいいの?

そんな問いかけがあるように感じた。だから原題は皮肉なまでに逆説的だと思う。

ナディアを支援する弁護士アマル・クルーニーが、「あなたたちの苦しみを見過ごしていて申し訳なかった」というようなことを言うけど、その感覚。

いわゆる社会課題を見るとき、それに果敢に挑む人を見るとき、人は「大変だね」と言い、「すごい、応援する」と言う。

・・・それだけだったりする。

自分だって社会の一部なのだから、社会課題については自身も構成要素になっている。当事者である。いや、加害者ですらあるかも。でも、そんな意識をもつ人は少ない。

さらに、課題に取り組む人に拍手を送り、あの人はすごい人ともち上げて、断絶してしまって、行動しない、行動できないと思いこんでいる人は多い。

世界は、偉人でまわっているわけではない。

私たちのだれもが、社会課題の当事者であり、当事者として解決の行動ができるはず。

エシカルの説明で引用させてもらう、パタゴニアのイヴォン・シュイナードさんが末吉里花さんに言った「社会課題について何もしなければ、あなたは課題の一部になる。でも何かすれば、あなたは解決の一部になる」ということの通りなはず。

『ナディアの誓い - On Her Shoulders』を見て、ナディアの肩にのしかかるものを思いすごいなーと言って終わりでは、課題の一部になりかねない。ダイレクトな解決ではなくても、ほんの少しでも解決につながることを模索し行動することが 、自分の肩でも担い、解決の一部になることだと思う。男性だったら性暴力の温床となるようなコミュニケーションの見直しをするとかね。

「彼女の肩に」ではなく、「私たちの肩に」背負うもの。

エシカルや民主主義とも通底する、そんなことを考えさせられる映画でした。

上映後に安田菜津紀さんのトークがあり、改めて安田さんの人間への優しさを強く感じた。

ISに加わっている人について。ヤジディ教徒を非人道的に迫害し、世界からも狂気的脅威と思われているものの、みな生身の人間で、それぞれの考えや価値観があることをお話しされていた。

カテゴリーで見て、レッテルを貼って憎むのではなく、一人ひとりの人間を見ることの大切さ、それが不寛容の連鎖を断ち切る道であることを伝えているのかな、と思いました。

『ナディアの誓い - On Her Shoulders』、東京だと渋谷・吉祥寺のアップリンク、他全国で上映してます。
http://unitedpeople.jp/nadia/

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