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切磋琢磨のダイバーシティ

人事は、「切磋琢磨」という言葉をどう捉えているのだろう。

古典はいつも新しい。論語の解説書はいろいろな切り口から出されていて、こんなアプローチもあるのかと思いながら読むのが楽しい。

能楽師の方が書いた『身体感覚で『論語』を読み直す。』は、古代漢字をもとに、その象形を身体性に置き換えつつ読む試み。当時の漢字に新登場した「心」に焦点をあてた考察が面白い。・・・ながら、気になったのは別のこと。

「切磋琢磨」について。

「切磋琢磨」というと、仲間たちでお互いに競い合いつつ高めあっていくイメージをもっていた。でも、勘違いをしていたみたい。

「骨を削ることを「切」といい、象牙を加工することを「磋」をいい、玉を磨くことを「琢」といい、石を磨くのを「磨」という」そうな。『詩経』が出典だが、『論語』では学而編にて孔子と子貢の会話に出てくる。

素材をしっかり見極めて、それによって磨き方を変えているのだ。

これってダイバーシティだと思う。

リーダーが、この素材(人材)ってどんな特質なのかなと把握して、それに応じた育成やマネジメントをすることで、本当の価値が発揮されることを「切磋琢磨」というのではないか。象牙を「磨」しても、玉を「磋」してもダメなわけですよ。

「富を得る性を持つ子貢が、顔回に憧れて、その性から離れたことをするのは天命に反する。無理が起こる。そんな無理をせずに、自分の「性」にあった方法で道を探求する。それを孔子は勧めた」。

「切磋琢磨」の反対語は何かなと考えると「角を矯めて牛を殺す」だと思う。

牛という特質を無視して、型にはめた育成やマネジメントを行うと、牛は死ぬ。個々人の持つそれぞれの価値を、ダイバーシティを見ることのできない悲劇が表現されている。

かつては、とりあえず「角を矯めて」おけばよかったかもしれないけれど、もう今はしっかりと多様な特質を見極めて「切磋琢磨」をする時代だ、、というのは自明ではなかろうか。

そうなると、リーダーはちゃんと「骨」なのか「玉」なのか見極めて、時に「切」し時に「琢」しなければならない。ただ「角を矯める」という単純行動だけですんだ頃に比べて飛躍的に情報処理量も業務量も多くなる。大変ですよね。

でも『詩経』の時代から「切磋琢磨」という言葉があり実践されていたわけだから、現代の我々ができないはずはない。そしてリーダーは特別な役職ではなく、誰もが何らかのリーダーになり得ることを考えると、すべからく我々みなのこと。

互いの特質を見極め、互いにあった磨き方をしあえる。そんなダイバーシティな「切磋琢磨」が広がればいい。

古典はいつも新しい。


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