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なぜ47都道府県にこだわったのか?〜フットボールの白地図 改め『蹴日本紀行』を語る<その壱>

 まずは「連想ゲーム」からスタートすることにしたい。「47」という数字から、貴方は何を想像するだろうか? 時代劇がお好きな方なら赤穂浪士の四十七士、サッカーファンなら田中隼人(柏)や中野伸哉(鳥栖)や旗手怜央(川崎)といった背番号47の選手をイメージするだろう。だがほとんどの方は、47都道府県をまず連想するのではないか。

 それにしてもなぜ、わが国の広域的地方公共団体は「47」という、半端な数になっているのだろうか? なぜ、アメリカの50州みたいに、わかりやすい数字ではないのだろうか? そんなことを一度でも考えたことがある方は、ぜひとも本稿をお読みいただきたい。ちなみにWikipediaの「47」のページに、こんな記述があったので紹介しておく。

・47は15番目の素数である。1つ前は43、次は53。
・5番目の安全素数である。1つ前は23、次は59。
・8番目のリュカ数である。1つ前は29、次は76。
・n に2を加えた数と2を乗じた数が逆順になる2番目の数である。1つ前は2、次は497。

「素数」以外、まったく理解できない。「安全素数」とか「リュカ数」とか聞いたこともないし、あるいは「n に2を加えた数と2を乗じた数が逆順になる」なんて、55年も生きてきて一度たりとも考えたことがなかった(笑)。

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 話を47都道府県に戻す。わが国の都道府県の数は最初から47ではなく、実は紆余曲折を経てこの数字に収まっている。それはアメリカの州の数も同様で、最初は13州からスタートし、州の数が増えるたびに国旗の星の数も増えていった(星条旗は世界で最も変更回数が多い国旗である)。これに対して日本の47都道府県は、当初300以上あったものが、合併と分立を重ねて現在の数に落ち着いた。

 大政奉還後の1871年(明治4年)、廃藩置県によって北海道の一部を除く国内全域が3府302県となることが決まる。なんと、現在の6.5倍もの府県があったのである(当時の名称を見てみると、八戸県、宇都宮県、浦和県、松本県、福山県、丸亀県、人吉県といったものもあった)。幕末の藩の数は300近くあり、まずはそれらが県にスライドしていったのである。

 そして翌1872年の第1次府県統合で3府72県に、さらに1876年の第2次府県統合で 3府35県までシュリンク。その後、幾度かの分立が起こり、東京府が東京都に移行された1943年(昭和18年)に1都2府43県2庁(北海道庁と樺太庁)となる。そして戦後、沖縄県がアメリカ施政下に入り、樺太庁が廃止されて北海道庁が北海道に移行。しばらく46都道府県の時代が続き、1972年5月15日の沖縄本土復帰により、現在の47都道府県となったのである。

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