自由について

 自由は、戦後の日本人にとって、戦前の「天皇陛下」のやうなものだ。

 戦前の日本では「天皇陛下」に対する疑問を公にすると、仕事は確実に失ふし、下手をすると命も狙はれるといふ世界だった。
 フリーカントリーのアメリカの属国になってからは、「天皇陛下」と自由が入れ替はった。「自由のためなら死にます」と言ふことで、アメリカの指示に従って、最近は、「日本の自由を守るため」の対中国戦争の準備までしてゐる。

 それにしても、自由とはなんだらうか?
 「天皇陛下」が絶対的な価値であった時代も、天皇陛下とはそもそも何なんだと考へた臣民はゐなかった。西郷達のつくった明治政府の修身教育を受けて、天皇陛下は絶対だと思ひ込んでゐただけだ。

 今の時代の自由も、学校で民主教育を受けたので、誰もが一番大事なものと思ひ込んでゐるだけだ。
 市民がひとりひとりじっくり考へて「なるほど、さうか。では、自由のためなら命も捨てよう」として納得したものではない。
 先生に教へられ、クラスのみんなが自由が素晴らしいと言ふので、同調圧力に負けて、自分もさう思ってゐるにすぎない。
 そして、そのまま大人になったのだ。

 わたしの場合、自由と聞くと、
なんでも自分の好きにやっていいこと
と感じる。
 自由な国では、言ひたいことが言へて、やりたいことができる。
 それでいいと思ふのだが、気になるのは、英語の辞書をひいた時だ。

 an apple of worms 虫のついてないリンゴ
 She is free of taxes. 彼女は税金を払ふ義務がない
  Her face is always free of make-up. 彼女の顔にはいつも化粧気がない
 a man free from fear 不安の全然ない人

free from ~ 「何々から自由である」といふ表現は、わたしが素朴に感じてゐる自由の概念と、微妙な不協和音がある。
 自由とは言ひつつ、未だに、何かから必死で逃走してゐる感じ。これでは、まだ、自由ではないのではないか。

 わたしにとっては、別に何かから逃走するのではなく、ただ「自分の気持ちに従って自然に生きること」が自由だ。
 何かから逃走、或ひは、何かと闘争してゐるうちは、わたしの感覚では、まだ、自由とは言へない。

 わたしだけではないと思ふ。
 日本人は「不安などどこにも無い、ああ、自由だ」といふ状態を求めて、禅を組んだり宇宙人と交信したりしてゐる。

 確かに、戦後、アメリカの進駐軍によって日本人は「封建道徳から解放」され、自由を得た。 
 けれども、そうして得た自由は、それ自体として機能してをり、from付きのfreeではない。
 やりたい放題、ひたすら金儲け、汚職でも公害でもなんでもありの自由。それが、戦後の日本人にとっての自由だ。

 実際、戦後、七十数年、わたしたち日本人は、国家とか世間とかいったものから自由になって、自分の内なる欲望(お金が欲しい、豊かに暮らしたい)に従って、経済活動に専念した。
 そのときは、もう、free from ~ ではなく、自分の気持ち、自分のやりたいことを基準にして、まさに自由に生きて来たはずだ。

 その結果が、今の日本だ。


 今さら、自由を捨てろと言ふつもりはないが、free from ~と表現される自由については、この際、考へておくべきだと思ふ。
 つまり、西洋流の自由のこと。
 西洋の自由は、やはり、背景にキリスト教の道徳を引きずってゐる。

 キリスト教は、人間の身体性との闘ひである。
 だから、身体性のトップに躍り出る性欲を必死で否定しようとする。
 神父様は、独身で生涯に一度もセックスをしないことになってゐる。
 修道女だってさうだ。
 女性の服装は肌を露出しないやうにデザインされ、下着ですら足首まであった。
 セックスはもちろん夫婦の子作りのための営みに限定され、その営み方も「動物的」にならないやうに、微に入り細を穿って指定されてゐた。

 かうして性欲を必死で否定してきたから、その方向性が転じると、性解放になる。「ベクトルが変はった」といふやつで、エネルギー体の質は同じだ。
 何かと闘争して、なんとかそれらから逃げ出そう、自由にならうとする生き方である。

 西洋の女性がとにかく乳房を半分露出したり、もっと意識が進んだ国の女性たちはブラからの自由や、公園や海岸でのトップレスを求めてゐたりするのも、元の原動力は「身体性との闘争」だ。

 身体性と精神を二つに分けたことのない日本人には、性に関しては色好みといふ領域しかない。人間存在を身体と精神とに二分して、そこから性欲といふ動物的な欲望を取り出す、といった西洋外科医学的な捉へ方はできない。

 禁欲も(それの逆立ちである)マルキ・ド・サド的な性欲の追求も、どちらにしても、常に、仏教や儒教やキリスト教といった外来思想であり、大方の日本人の心に響くことはなかった。
 ちょっと変はったことをしたい高等遊民や支配層の人たちが人民支配の道具として興味を持つに過ぎなかった。
 日本人にとっての性は、身体性と精神性のまざりあった、身体とか精神とかいった分類を拒むものだった。そんな日本人は、キリスト教から見ると許しがたい「不道徳な領域」を漂ってゐるのだ。

 ここまでをまとめると、
 free from ~とは、
 性欲に代表される動物的欲望、すなはち身体性から逃走すること

 戦後の自由は、むしろ、身体性にのめり込むことだった。人間の動物的欲望(とかいって区分したことがそもそも日本人には無かったのだが)を自然なものとして受け入れて、無理をしないことだった。

 「頑張れ」といふ言葉に代表されるやうな、戦前の日本人に無理をしいた考へ方は、「封建的」といふことで粗大ゴミとして放棄された。
 自由な日本では、何につけて「楽しまう」が正しい。

 この頃、「今だけ、金だけ、自分だけ」がいけないと言ふ人が出て来た。
 これは、戦後の日本の自由の否定だ。

 面白いのは、戦後の日本を否定するために使ってゐる新しい道徳が、西洋由来のものであることいふことだ。
 封建道徳の復活は許されない。(西洋人が称賛し、承認してくれるまでは)
 このあたりの事情は、日本の近代化と関係してゐて、面白いと言ふより、なんだかパセティックでもある。

 今後の日本は、自由を掲げた集団がいくつも出て来て、分断されていくだらう。今のアメリカのやうになる。
 たとへば、LGBTのことで、トランス女性と、生物学的女性との間で、それぞれが自由を主張して争ひが始まってゐる。

 アメリカがああなったのは、キリスト教から離脱できなかったからだ。
 日本がアメリカのやうになるのは、わたしたちの内なるキリスト教のためだ。

 七十数年、精神的植民地化を受け入れ続けて、言ふのもおそろしいことだが、いまや、長期間、有害な放射線にさらされた人のやうに、わたしたちの骨身にはキリスト教精神が憑りついてしまってゐる。
 なんのことかわらない人に一つの例。

 今や、電車の中で胸元を広げて赤ん坊に授乳してゐる女性はゐない。
 今年は異常に暑いが、道端で裸で行水してゐる女の子はゐない。
 どちらも昭和の半ばくらゐは散見されたさうである。
 今ならたちまち盗撮され、まはりに人目がなければ母子も少女も襲はれるだらう。

 今や、わたしたちも性欲に憑りつかれ、目についた身体には、たちまち性欲が注がれる。女性は、そんな男性の性欲を操ることに憑りつかれて、様々なファッションを工夫してゐる。
 キリスト教圏の西洋人に近づく勢ひである。

 これは、放射線による被害と同様、次世代にも伝はってゆく。

 


 
 

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