新型コロナのワクチンについて

 ワクチン被害についての訴訟が出て来ているようだ。
 わたしとしては、職場でワクチン接種が事実上強制されたときに、当事者たちがどんどんと訴訟を起こしてほしかった。これがほとんどなかったのは、弁護士のせいだ。
 弁護士もそういう訴訟を起こすように勧める営業をしなかった。
 弁護士に「裁判には勝てます、負けたらお金を返します」と言われれば借金をしてでも訴訟した人は少なくなかったと思う。

 「国を相手取って」という訴訟に関しては、わたしは、当然の訴訟であっても、悲痛な被害者の訴訟であっても、どこかで自分の中に少し冷たい視線があることを否めない。
 国家主義者だからだ。それで、人間性が歪んでいるのだ。

 けれども、こいつは国家や行政にひどい目にあったことがないから国家主義者なのだろう。もしかしたら、岸田さんの息子か、と思うのは早計だ。国家や行政のろくでもなさについては三代にわたって身を持って知っている。ひどいめにあっている。
 そのことについては今は書かない。
 それでも、国家は大事だと思っているので、マゾなのかもしれない。
 実際、意識の高い精神科医たちは、国家主義者になるような人は心を病んでいる。ナチをごらん。みんな、マゾとかサドとか覗きとかフェチとか、とにかく変態だと分析している。

 高齢者の多くはコロナのワクチンを打ったようだが、わたしは「どうしようか」と思って迷っているうちに三年が過ぎてしまい、結局、一度も打たなかった。
 以前の記事でも書いたが、「打たないとヤバい」という感じがしなかったからだ。

 むしろ、医者が打て打てと言ってるのをみて、
「打つとヤバい」という感じが高まっていく三年間だった。
 わたしの医療や医療従事者に対する偏見はひどいのである。


 高齢者はコロナにかかると死ぬと言われていたが、わたしのような年齢になるとAVを鑑賞していても興奮したせいで死ぬかもしれないのであるから、死はいたるところにある。
 死ぬぞと言われても、そう簡単にはよろよろと立ち上がって何かをしたり、やめたりする気にはなれない。
 ヤバいと思う死は、目の前に暴走して来た自動車のような死だけだ。
 死がはっきりと死神の姿でかまを振り上げているのを見たら、
 その時は、「助けてくれ、死にたくない」と思って叫ぶと思う。

 コロナがわたしの目の前に死神の姿になって立ったという感じは、わたしには、しなかった。

 最初は、ワクチンを打たないと人に迷惑をかけるとも言われていて、「そうだとしたら、打たないといけないかな」とも思っていたが、ぐずぐずする性格が今回は幸いした。
 やがて、その理由で打つ必要はなさそうだと思うようになった。これが正しいかどうかはわたしにはわからない。
 何年かたって日本人が、原因不明でバタバタと死んだとき、調べてみたらその死んだ人の大半は、何年か前のコロナ騒動のときにワクチンを打っていないか二回以下だった人だという結果が出たら、わたしは「打てばよかった」と後悔するだろう。
 
 なににしても、統計的な事実である。
 ほんとうのところ、なにが事実なのか、今回のコロナ騒動においては、何もわからない。

 この原因の一つは、むしろ、反ワクとか反マスクとかいった、「流れに逆らう」のが趣味の人々の言動にあると思う。
 専門家の看板を掲げて、わかったようなことを言い過ぎだ。
 感染症の現実については、おそらく十年くらい過ぎてから綿密に検証しないとわからないのではないだろうか?

 もうもうと水底の泥が舞い上がって何もかもがおぼろな影にしか見えない状況で、専門家の持つ現在の専門知識では歯が立たないから、意見がバラバラなのだと思う。

 利権による作られた感染症騒ぎだとする説は、そうあってほしいものとして魅力がある。
 わたしは、悪と善がはっきりした世界が好きだ。
 そういう世界では、善の側について楽しく充実した日々を送れるからだ。
 共産党や参政党に入って駅前やモール街でビラを配っている老人たちは、世直しのために残りの人生を捧げる、悔いのない老後を過ごしているのだと思う。

 わたしも、ちょっと前、深田萌絵氏に賛同して、萌絵氏の作成したLGBT法案反対のビラを街で配ろうかと思ったが、ジジイは臭いから近寄るなと萌絵氏にも言われそうなので、やめた。

 でも、↑この動画で見る限り、やっぱり年寄りがいる、というか多いね。
 暇があるからね。
 何か生き甲斐がほしい。
 自分の存在の意味がほしい。
 コンビニで女の子の店員に怒鳴るのと較べたら、すごく、ええことやと思いますわ。

 嘉納治五郎先生の「精力善用」に倣って、わたしも、「老人力善用」を心掛けたいです。


↑ 可愛い。うっすら開いた口元なんて、おじいちゃん、ドキドキしましたよ。
なんか可憐な感じが出ていて、これまでの目の吊り上がったイメージとギャップがある。
「女」をうまく場面に分けて使える萌絵氏はトリッキーな(和語で言うと「喰えない」)人だなと思う。それでアンチという熱烈なファンも生むのでしょうね。

 コロナ騒動については、ワルモノとイイモノがなかなかはっきりしない。
 イイモノになるには、被害を被った弱者を、まず、見つけなければならない。
 だから、ワクチン被害者を支援するなら、イイモノになれるのは間違いない。

 昨年からのとんでない超過死亡率の増加は、ワクチンがもたらしたものなのだろうか?
 漠然とした印象としては、そうだろうなという感じがする。

 そもそもワクチンは薬物治療ではないから「安全」というイメージがあるが、安全ではないと思う。
 少なくとも「誰が打っても大丈夫」というワクチンは今までにもなかったようだ。
 原理として毒を以て毒を制すであるから、薄めた毒でも耐えられない人はいるのは当然だろう。

 コロナのワクチンに限らず、ワクチンを打つ前に、①と②を天秤にかけて考えなければならないようだ。

①ワクチンの効果
②ワクチンの被害

 コロナのワクチン接種の場合、政府は抜け目なく、国民に念を押していた。リスクとベネフィットというカタカナで。

 難しいことが書けないわたしは、また、つまらない比喩を使う。
 わたしの住む共同住宅が火事になった場合、逃げる方法は二つある。

①窓から、駆けつけた消防士の方々によって地上に広げてもらった高所降下用救命装置(エアマット)めがけて飛び降りる
②非常階段を駆け下りて建物の外に出る

 わたしにとってのワクチンは、①だった。

 エアマットへの飛び降りは安全性が高い。 
 けれども、わたしの住んでいるところは高層の最上階なので、段差のない床の上でもつまづく老人のわたしは、ボスっとマットに落ちた時点で体のあちこちをひねったり折ったりして、病院に運ばれた後、もがき苦しみながら死ぬかもしれない。

 また、飛び降りている途中で恐怖のあまり気死しない自信もない。

 それで、ワクチンは打たなかった。
 というより、打てなかったのだ。
 怖すぎて。

 もし、火の手が部屋の外にまで回っていて、非常階段にも行けなくなっていれば、わたしも窓から飛び降りると思う。何も考えてる暇がないから、たぶん、飛べるだろう。

 コロナ騒動に関して、今回は、そういう事態までには、わたし個人の状況としては、至らなかった。
 
 将来は、いわゆる「子供たちの未来」には、そういう事態があるのかもしれない。
 罹ればたちまち死んでしまう感染症が広がっていけば、

①今すぐ疫病で死ぬよりは、
②三年先にワクチンのせいで死ぬことを、

たいていの人が選ぶだろう。

 その三年を人々がどう生きるのか、個人的には、小説にでもしてみたい状況である。

 

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