心理カウンセリング―ダムの理論

 ダムの理論。
 心理カウンセリングや精神療法におけるダムの理論のことです。
 書く前に「ダムの理論」でググってみたが、松下幸之助のダム式経営ばかりが出て来た。松下幸之助は大嫌いだ。「これはいいな」と思った電気製品でもパナソニックだったら、意地でも買わない。しないでいい損をしている。義兄がそこの技師だ。それもこれも、みんな、幸之助氏のせいだ。←関係ない話。

 精神分析的な対話を重ねていると、ちょうどダムの水を汲みだすようなもので、その底に沈んだムラが現れる。

 無意識を引っ剥がして心の底に何があるかをつきとめていくこと、そのことには、治療的な意味が無いことがわかってきた。
 引っ剥がす方は面白くてたまらない。人間性の奥にはこんなものが隠れているのか、すごーい、という精神分析かぶれの精神科医が喜んだだけだ。
 もともとが覗き趣味で心理を始めた人たちだから、今でもYouTube動画を出しては、はしゃいでいる。そんな暇があったら、治せよ。


 精神の不調は、心をダムに喩えると、その水位が下がって発電力が落ちることに相当する。
 そのまま放っておくと、水はどんどんなくなっていき、発電のダムの役には立たなくなる。そして、「あれ、なんか底のほうにへんなものがみえてきたよ、え?まさか、屋根?家が沈んでるの?」とかいうことになる。
 家どころか、ムラひとつ、まるまる沈んでいるのである。
 何百年か前に、どういう理由か、谷ぞいにムラがつくられて、そこで人が生れ、家族を持ち、争ったり協力したりしながら、やはりそこで死んでいった、ムラ。

 水力発電のための近代設備であるダムの、その底に沈んでいたムラ。
 そんなムラの存在を知ってしまった患者は、もう二度と社会適応できなくなる。

 喩えを陰惨なものに変えて書くと、こうなる。
 「ここ掘れ、ワンワン」と精神科医もしくは精神分析家気取りの心理カウンセラーに言われるので真面目に地面を掘っていると、なんだか急に、思い出した。
 何ヶ月か前に自分が誰かを殺して真夜中にひとりで地面を掘ってここへ埋めたことを思い出した
 「ああー、おれは人殺しであったんだな」
と驚いているところに、スコップががつんと当たって、埋めてから数ヶ月の、とんでもない状態の遺体が土の中からごろっと出て来た、というような悪趣味なホラーじみた展開である。

 精神科医や心理カウンセラーはこういう過程を見ながら、またネタをしいれたということで本を書き散らしていた。

 それはあんまりだ、ひどすぎるという良心的な精神療法家もいて、心のダム理論をつくり、心の不調和を訴えてやってきたとき、つまり心のダムの水位が下がっているときは、みっつの原因を想定することをすすめた。

①上流からの水が少なくなっているか、絶えている
②ダムのどこかに穴もしくは亀裂がある
③放水量を調節する時期にきている

 みっつのそれぞれに対して対症療法を行う。

①は、患者の人間関係や職場関係などにあたる。
②は、患者の人格に社会適応を妨げるところがあるということ。認知行動療法で現実対処のスキルを身に着けてもらう
③は、①と②と関連するが、主にこれまでの生活の、ペースダウンを本人が新しい生き甲斐を持てる形で、実行できるようにする

 ダムの理論は、対症療法である。
 ダム底のことについては無視する。どうしてそこにダムが造られたのかも一切考えない。
 精神療法や心理カウンセリング、ましてや精神分析という知的遊戯には、人の心を治す力は無い、心を分析しても人を幸せにはしないということを見極めた人の治療理論だ。

 水没したムラのことがどうしても気になって気になって、そのせいで生きづらい人もいる。そういう人は精神分析をうけないでもムラの存在に薄々気づてしまっている人である。
 今、これを読んで、カフカの『城』のことを思い浮かべた人もいるかもしれない。
 そういう人は、或る意味、うまれつき、ちょっと不幸な人だ。

 そういう人は、やはり、詩を書くなり、小説を書くなり、或いは精神療法家になるなり(これらもまた根本治療とは結びつかないことなのだが)自分なりの方法を用いて、気のすむようにやるしかないだろう。

 noteをとおして、そうしている人たちの存在、詩人や作家、精神療法家(どういうわけかスピ系が多い)の存在を、わたしは、知った。
 なんだか、「独りであるわたしは、独りじゃない」という気がして、生きる意欲が湧いて来た。

 
 
 

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