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脳内物質の哲学

 人はなぜ祈るのかという問いは古来発されてきているが、これは現代的知見を活かせば容易に回答が出ていると思う。すなわち、通俗的に愛情ホルモンと呼ばれるところのオキシトシンを中心とした多くの神経伝達物質が分泌されるためというのがその答えである。女性の子宮の収縮を促し、母乳の分泌を促すオキシトシンは、近年、不足すると脳内の化学的不均衡をもたらしうつ病になってしまうセロトニン、前頭葉の機能を保ち報酬系を活性化する快楽物質ドーパミンなどとともに、神経伝達物質として重要な機能を担っていることが判明してきた。これは基本的には触れ合いや人や動物とのつながりによって分泌されるものであるが、感動や感謝などでも分泌が促進されるようである。
 私は今後しばらく、ともかく展開可能性のあるかぎり、この「脳内物質の哲学」でどこまで行けるかをやってみたいと考えている。

 ドーパミンは現代最も訴求力が高く、あらゆるところでこれを活用しつつも警戒しなければならない欲望の物質となっている。ヘーゲルは資本主義社会を端的に「欲望の体系」と宣言したが、こうした、欲求とは異なる際限なき、飽くなき不満の追求がドーパミンによる快楽の基本となる。

自閉スペクトラム症には脳内のドーパミンD2/3受容体の減少が関連し、社会的コミュニケ―ションの困難さや脳部位間の機能的な結びつきに関与していることが明らかに

 また、例えば母性と父性で言う所の父親の役割としては、

子供の発育に関して、父親が重要な役割を果たしていることが、近年認識されるようになった。従来は、父親の役割として、稼ぎ手、監督者、性役割モデルなどが知られていた。しかし近年研究が進んで、社会性の発達や知的能力の発達など、父親が子供の精神的発達に重要な役割を果たしていることが明らかになった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%88%B6%E8%A6%AA%E3%81%AE%E5%BD%B9%E5%89%B2

といった研究がなされているように、父性の役割として社会性の発達が挙げられている。父親は基本的に母親と異なり、刺激のある活動を通じて子供を社会的に育て上げていくようであるが、こうしたことは、精神分析的言説に慣れ親しんだような人からすれば、超自我に関する<父>の議論で古くから言われていたように、自明のことであろう。なお、ユダヤ=キリスト教の「父なる神」が「父」であるゆえんは、法による共同性の統治に関わっていると考えられる。父なる神は自称するところ「熱情の神」であり「嫉妬する神」である。人は刺激による快楽を通じて社会化される様子である。ところで青年期に関する議論で「反社会性」ということも喧伝されるが、重要なことは言葉に惑わされないことで、あれはあれで一つの社会化である。
 ドーパミンは腹側被蓋野から前頭前野に向かう投射が着目されるが、ヒトで最も著しく発達した前頭前野の機能や構造に先天的な異常を抱えた神経発達症の人々が呈する共感性の低さや注意集中、予期的な計画性の課題から、また、ネコ→イヌ→サル→チンパンジー→ヒトの順で前頭前野の大脳皮質全体に占める割合が大きくなることから、やはり社会性能力に深く関わっていることが示唆される。恐らくだが、社会的適応は内的な報酬的快楽による方向付けによって、哲学的に言い換えれば内なる統制原理によって、他者と同期することそれ自体の自己目的的快楽で達成されていく様子である。

 しかし、実際に事例で考えてみればよいが、ドーパミン的な高揚感が前景化した哲学は、或いは哲学に限らずそうしたものは、その多くが反社会的でありさえする。「散歩」の語源は古代中国の五石散というアッパー系のドラッグであるが、こうしたものを使用していたのは半隠遁的な道士たちであった。また、若者に教祖的人気を誇ったロックミュージシャンが覚醒剤を使用した事例も挙げられよう。哲学で言うと『ツァラトゥストラ』のニーチェは多作の頃脳梅毒でシュープの状態に入っており、その神経興奮状態のなかで使命感に駆られて続々と著作をしていた。そうしたものは、往々にして神の死後にあって人生の無意味さに目覚めた若年層に訴求力を持つ。そうした一種のシャーマン的な有意味性が、詩的な言葉を通じて心を鼓舞するのである。

 いったい電光はどこにあるのだ、その舌できみたちをなめるべき電光は?狂気はどこにあるのだ、きみたちに接種されるべき狂気は?

 牧人のいない一個の畜群!誰もが同じものを欲し、誰もが同じである。別様に感じる者は、みずから進んで精神病院に入るのだ。

ニーチェ『ツァラトゥストラ』より

 私は、この「接種されるべき狂気」に、ドーパミンの過剰が人間に付与する、ニヒリズムを超克するあの有意味性を見るのである。だから、よく注意しなければならないが、無意味さに絶望し相対性に圧倒されることも確かに問題だが、病理的には、圧倒的に意味が迫って来るような感覚のほうが、いわば関係妄想的であり危険だと言えるのである。「ドッペルゲンガー」を見たと主張する芥川龍之介最後の著作『歯車』や、「シンクロニシティ」というまがいものですらないオカルトを主張したユングにみられるあの使命感は、容易に推察可能な由来を持っているのであるが、こうした周囲からすると理解不能な使命感は、統合失調症や双極性障害といったドーパミン過剰による興奮状態で、かなりの頻度で観察されるのである。芥川もユングもニーチェに強い影響を受けていたことが知られているが、この、無意味から「大地の意味」への価値顛倒は、神=<父>の不在にあっては、少なくとも事例から伺うに非常な危険を伴っており、その世紀末的な試みは、あくまでも健康に生き抜くことを命題とするかぎりにおいては、失敗した実験である。しかし、父性や社会的なモラルのもつ別の側面、すなわち「闘争か逃走か反応」を引き起こす不安物質であるノルアドレナリンを活用した社会化教育である「躾(しつけ)」が引き起こす学習的な神経症に対しては、その脱構築のためには神の律法や父権的な社会から降下してくる逃げ場のない意味価値に対して、いわばア・モラルな、反道徳、反社会的な逃げ場へと、自主的な快楽による方向付けを通じて逃走しなければならなかったことは理解できるし、多分、そのことを私はよく了解できる。
 情報入力に対する快と不快の区別を行い、条件づけに役割を果たす扁桃体では、ドーパミンとノルアドレナリンが同時にはたらいているのであって、さらにその他の経路でもドーパミン-ノルアドレナリンは連動系を形成しているようなので、私は遺伝的な精神病質と神経症とをむしろ近縁のものと捉えている。発狂恐怖による予期不安で自殺、ということも、恐らく精神的事象としてみれば珍しいことではなく、むしろ一般的な事象の事例であるといえる。

 我我を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。我我は殆ど損害の外に、何の恩恵にも浴していない。

芥川龍之介『侏儒の言葉』より

 神経症の研究から精神分析学を創始したフロイトは、退廃的とも自由主義とも言われる「世紀末ウィーン」で活躍したが、その時代性を支配した哲学はショーペンハウアーやニーチェの生の哲学であった。フロイトがユダヤ人であるように、世紀末ウィーンで活躍した人物にはユダヤ人が多いことが知られる。その時代に画家を目指してウィーンに上京し、のちにドイツ第三帝国の総統に登り詰めるのが、まさにショーペンハウアー哲学やワーグナーの楽劇に心酔したアドルフ・ヒトラーである。のちにヒトラーは世紀末ウィーンの芸術を「退廃的」とし、精神分析学もろとも迫害を行っている。こうしたことから、「終末」の比喩として「世紀末」の印象は活用しやすいのである。ところでショーペンハウアーは主著『意志と表象としての世界』によって自殺者が相次いだことから後年『余録と補遺』で暗に自殺を禁じたが、結局世紀末ウィーンでは、フロイトが「死の欲動=タナトス」の議論をするほどに自殺が流行してしまった。ショーペンハウアーの説いた「生きんとする盲目的意志」は、神経科学的に言えば諸々の神経伝達物質の分泌がもたらす生存本能であり、力への意志やリビドーへの系譜なのであるが、「化学的不均衡」仮説のように、例えばセロトニンが不足して神経伝達物質のバランスが崩れると、人は容易にそれを失う。フロイトは「文化への不満」など、多くの文化論を残したが、文化という人工的で不自然な拵え物は容易に人を不均衡にする。だから、時代ごとに哲学が課題としてきた事柄も、文化構造とそこから生起する神経伝達物質の不均衡をベースに考えると、相当な精度で理解でき、かつ有効な対策に繋げられる。
 ショーペンハウアーを「厭世哲学」として受容した芥川の「ぼんやりとした不安」による自殺や、「何となく不安」ということを存在の実存的なあり方の基本に据えたハイデガーの『存在と時間』の刊行は、時を同じく1927年なのであるが、これはそうした世紀末的な退廃というなんとなく漂っていた時代性を反映しているように思う。一応述べておくと、「神経症」は現代の診断基準からは消えており、多くの医療者は「不安症」と呼ぶようになってきているのであって、また、治療薬として望ましいとされるのはSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)という、シナプス間隙のセロトニンを増やす薬であり、対症療法としては、通俗的に「精神安定剤」の名で知られる、GABA(γ-アミノ酪酸)という抑制性の神経伝達物質で即効的に不安を抑え込む抗不安薬が使用されている。

 さて、そのような見方で現代社会を見ると、当然現代はどのような時代かという問いが浮かんでくる。そこで考えられるのは、現代が「触れ合い」や「宗教性」の不足、基本的なインドア傾向、しかし連続した小さな情報刺激の過多、などに直面しているということである。すなわち、恐らくセロトニンやオキシトシンは不足する傾向にあり、ドーパミン-ノルアドレナリンは文化的に過剰な傾向にあるはずである。30分2-3000円ほどの価格帯で按摩やマッサージもあるので、活用するのも手段として有効だと考えられる。もっと言うと、明らかにれいの幸福感は床屋でクリームを塗られているときのそれなので、定期的な散髪は健康に寄与しているものだと考えられる。こうして、一つ一つの要因に遡行することで、長期的な代替案として選択肢を増やすことができる点で、知識と思考は有益さを持つと考えている。だから、なにか極端な足掻きを見せる前に、まず落ち着いて選択肢を増やすことを考えなければ、うまく生きていくことは叶わない。落ち着いてみなければならない。まず時間をかけて落ち着いてみてから着手するのが、結局は一番の早道だったりすることが往々にしてあるので、日々の対症をしながらにしかならない。慌てずにやっていこう。

2023年12月31日

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