オキナワの頃 其のゼロ 本島上陸、ひめゆりの塔

29歳の秋、ぼくは長年の夢、沖縄移住を果たすため、生まれ育った神奈川を飛び立った。

ハタチを過ぎた頃、家族の事でとても傷ついたことがあって、その後、沖縄を旅したときにとても心が癒されて、それ以来沖縄の文化、音楽、気候風土が大好きになって、いつか沖縄に住みたいと思うようになった。
神奈川で活動する八重山民謡ユニット〈みるく〉(石垣島を中心とする八重山地方では弥勒様をみるく様と呼び、それをユニット名にしていた)。そのみるくの後を金魚のふんのようにくっついてまわり、銀座わしたショップに通い、友人が缶からで作った三線を手に入れ、朝ドラの「ちゅらさん」を何度もレンタルで見返し、真逆の方向だけど田舎暮らしの参考に「北の国から」を観て、沖縄に住みたいという想いを強くしていった。

30歳を前にして、今行かなければもう行けないんじゃないかという感覚になっていたぼくは、給料のいい医薬品の配送のバイトをしながら最低限必要と思われる移住資金を貯めた。

29歳、秋が来た。
有機農業のお勉強をしていた頃に購入した幌つき軽トラにありったけのCDと厳選した本、漫画、必要な衣類を詰め込んで、有明の港に預け、ぼくは飛行機に乗り込んだ。
羽田から那覇まで三時間くらいだったろうか。
那覇につくと特有のむわっとする纏わりつくような湿気、焼けつく太陽の日差しがぼくを迎えてくれた。

とりあえずぼくは安宿を見つけ、そこに居を構えた。はじめて沖縄を旅した時はまだあまり無かったが、この時は安く泊まれるゲストハウスが結構出来ていて沖縄の東南アジアのような雰囲気をさらに増幅させていた。
那覇港にあとからやって来た軽トラを回収し、仕事ないかな、もしくは農業始めちゃうか、などと思いつつ、沖縄にいるということに興奮していた。

沖縄で仕事を見つけ、住む、ということを始める前にぼくはひとつだけ行こうと思っていたところがあった。
ひめゆりの塔だ。







(ここから放浪うどん人さんという方のブログから引用です)



沖縄県糸満市にあるひめゆりの塔…。

私が沖縄を訪ねた真の理由は、ここにあります。


私の知らない時代、

人生を歩み始めたばかりの彼女達が、戦場の中でどのように過ごしたのか?

それを知りたかった。


ひめゆりの塔に花を捧げ、

ひめゆり平和祈念資料館を訪ねた。


そこで知りえた事は、私の想像を絶するものだった。





HIMEYURI



"今この瞬間…死ぬかも知れない。"

そんな状況の中、

家と家族と夢を奪われ、

人格までも奪われてしまう。



1945年3月23日の深夜、彼女達は学徒隊として、

負傷兵を看護する為に陸軍病院の外科壕へと、軍命により動員された。

だが、彼女達が動員された場所は、陸軍病院とは名ばかりの、昼間でも暗いガマ(洞窟)だった。

ごつごつとした岩の上に、簡易ベッドが設置されているお粗末な所だ。

ガマは、日が差し込む入口付近のみが薄明るく、少し奥へ入ると、真っ暗な闇の中だった。

そしてそこには、自分達の身を守ってくれるであろう赤十字の旗は無かった。

彼女達は、戦場の前線に立たされたのだ。
それから間も無く、1945年4月1日、米軍が沖縄に上陸した。


暗いガマの中、医療用品が不足し、不衛生な環境の中で彼女達は、

傷口から蛆虫が湧いている軍人の処置を行い、

酷い悪臭を放つ死体や排泄物、手術で切断された腕や足などの処理をもする。

自分で用を足せない軍人の陰部に触れ、排泄の介助を行う。

足や腕の切断手術を麻酔無しで受け、痛みで暴れる軍人を、彼女達が押さえつける。

お腹から内臓が出ている者。

顔面に銃弾を受けて顎が無い者。

手、足、指を奪われた者。

耳や目を奪われた者。

喉の渇きに耐えかねて、自らの尿を飲む者。

排泄物を垂れ流している者。

脳が炎症し、叫び暴れる者。

ベッドの上で手榴弾を抱え込み、爆破させて自殺する者。

隣では、瀕死状態の友人が苦しみもがく。
銃弾や砲弾が飛び交う中、命がけで水を汲みに行く。

膿や血の付いた手で、おにぎりを握り、それを食べる。

昼夜を問わず、彼女達は動き続けた。
米軍がガマに近づく。

大きな声は出せない。

大きな声で泣く事すら許されない。

静まり返ったガマの中、

まだ生きている者の肉や、死んだ者の肉を、蛆虫が蝕む。

グッグッ、グッグッと音を立てて蛆虫が肉を蝕む。

その音が、暗いガマに響く。

ガマの中に充満している血の匂いが、彼女達の心を蝕んでいく。

それでも彼女達は歯を食いしばり頑張った。

お国のために、兵隊さんのために…。
やがて日本軍から、彼女達たちは解散の命令を告げられる。

1945年6月18日の夜半の事である。

今後は自らの判断で行動しろと…。

米軍が激しく抗戦してくる中、自分の身は自分で守りなさいと…。

大日本帝国は、彼女達を、沖縄を見捨てたのだ。
彼女達は、米軍が目と鼻の先に迫った外科壕から離れることになる。

解散命令の直後…暗い中を歩かなければならない。

自力で壕を出られない歩行困難な負傷者には、自決用の青酸カリや手榴弾が配られる。

「お前たちの為に戦い傷ついたのに、これが人間のすることか!!」と、

青酸カリを手にした負傷兵から罵声を浴びせられる。

歩けない友人が「置いて行かないで!」と涙する。

光の入らないガマは、漆黒の闇である。

その闇の中へ、置き去りにされ「いざとなれば自決せよ!」と迫られているのだから、

その恐怖は言葉では表現出来ない。

ガマに残る者、去る者、人生でこれほど辛い別れはなかったろう。

ガマを去る者も、決死の覚悟だった。

銃弾や砲弾が飛び交う中、友人と手を握り合いながら逃げる。

やがて閃光が走り、気がつくと、友人の姿が見えなくなった。

ただ、その友人の手だけが、しっかりと握り締められたままだった。

夜道にはドラム缶のように膨れ上がった沢山の死体が、腐って悪臭を放ち、道を塞いでいた。

海岸へ出て夜の海に入り、米軍の目をごまかして逃げようとする者もいた。

海では多くの死体が浮いていて、思うように動けない。

ろくに食べれず、ろくに眠れず、衰弱しきった彼女達…。

波にさらわれる者もいた。

空ではたくさんの敵機が低空飛行で飛び交い、機銃で彼女達を狙い撃ちした。











命からがらガマに逃げ込んでも、民間人を受け入れない、軍人が支配しているガマもあり、

門前払いされる。

彼女達はその度に、別のガマを求めて危険な戦場を彷徨う。

ようやくガマに入れても、迫り来る敵の恐怖で心休まる時は全く無かった。

しーんとしたガマの中、幼い子供が声を上げて泣く。

軍人が、その子の首を絞めて黙らせる…。

親が、自分の子供の首を絞めて黙らせる。
彼女達の中には、逃げ場を失った者もいた。

逃げ場を失った者は、手榴弾や青酸カリを使ったり、崖から飛び降りて自決した。

心の底から、命を振り絞るように「お母さん!」と叫び、彼女達は逝った。

陸軍病院第三外科壕では、解散命令が出た翌日、壕から脱出する直前に、

米軍が壕にガス弾を投げ入れた。

第三外科壕は地獄と化す。

あちらこちらで「くるしいよ〜。」「おかあさん!!」「せんせい!!」という叫びが聞こえた。

呼吸が出来ない中、自らの尿で布を湿らせ、それを口と鼻に当てて、

ガス弾から逃れようとした者もいた。

壕には100名ほど居たが、80名余りがこのガス弾で亡くなった。

学徒隊では生徒45名のうち、このガス弾の中で生き残った生徒は7名。

ただ、そのうちの2名は、壕から脱出した後すぐに死亡。

1945年6月23日、沖縄戦が終結した。

その時点で、第三外科壕から生還出来た生徒は、僅か5名だった。

小雨がさとうきび畑を包み込む。

沖縄の海は赤く染まり、大地には黒い風が吹く。

雨の中、15歳から19歳の若き彼女達の涙が、泥まみれの頬を伝う。

やがて雨はあがり、涙を拭いながら、彼女達は空を見上げた。
1945年8月15日、日本は負けた。





ひめゆり学徒隊(沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校)

生徒222名が動員され、123名が戦死。

内107名が解散命令後に亡くなっている。



ー HIMEYURI 完 ー

作:放浪うどん人

こちらのブログからの引用でした。

(ぼくの文章にもどります。)

糸満の、安宿で一泊し、次の日ひめゆり記念会館に向かう。
ひめゆり学徒隊の日記を読む。
壮絶。人から湧く蛆。迫り来る米軍への恐怖。空腹と絶望。
ぼくの心はかき乱された。涙が嗚咽が止まらない。
ひめゆり記念会館を出て、軽トラを走らせた。なにも考えられなかった。
ハンドルは右に左へと、心が揺れるままに切られ、軽トラックも車線を関係なしに、砲撃で人がたくさん死んだ死者の道をくねくねと走った。

この後、ぼくがどのようにして那覇の宿に戻ったのか記憶は定かではない。
だが、ぼくはこの時、沖縄に骨を埋めようと思ったのは確かだった。

オキナワの頃 其のゼロ 完


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沖縄という土地は光も強烈なら闇も強烈。
昔の事を思い出しつつしたためました。

ここでぼくが大好きな沖縄民謡グループネーネーズの「真夜中のタクシードライバー」の動画をのせたいと思います。
切なくほっこりかわいらしい歌です。

また、いつか行けるときが来ることを願って。
また、皆様も沖縄旅行に是非足を運んでいただけたらとおもいます。

今回の記事タイトル「其のゼロ」とありますが、「其の一」からはこちらのマガジンで読むことが出来ます。
お時間ある方は読んでいただけたら嬉しいです。(コ ロナもヨガも一切出てきません(^^ゞ)


今夜は月に2回のお酒タイムでもあります。
本日のお酒はこちら!

泡盛、久米島の久米仙です。


今回もご一読大変ありがとうございました✨

シカイトゥミーハイユ✨
(八重山諸島の言葉で大変ありがとうの意)


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追記 「北の国から」で助け合いの言葉を「結い」と言うと出てきますが、沖縄では結いマール、竹富島ではうつぐみの心と呼んでいます。故田中邦衛演じるゴローさんの遺言、

「金なんか望むな。倖せだけを見ろ。ここには何もないが自然だけはある。自然はお前らを死なない程度に充分毎年喰わしてくれる。自然から頂戴しろ。そして謙虚に、つつましく生きろ。それが父さんの、お前らへの遺言だ」

が今も胸に染みています。

大変大変ありがとうございました。

ナマステ✨


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