マガジンのカバー画像

「オキナワの頃」と「オーストラリアの想い出」

15
ぼくが29歳の時から6年間住んだ沖縄。 移住 島の暮らし 島の祭り 食べ物  那覇やちむん通り ぼく自身の大冒険も書いています。 さらに、26歳の時旅したオーストラリア、パーマカ…
運営しているクリエイター

記事一覧

オーストラリアの想い出 パーマカルチャーサイトの冒険① オーストラリア上陸編

サッカー日本代表の試合を久しぶりに見た。 日本VSサウジアラビア。 代表戦を見るのは久しぶりだったけど、やっぱり自分は日本人。 南野のゴールにおおっ!となり、伊東の美しすぎるゴールでスカッとする。 見事な勝利。 おめでとう。 そして、次はオーストラリア・・・ オーストラリアかあ。 懐かしさがこみ上げて来る。 オーストラリアと聴くと記憶の扉が開いて、 ぼくを追想の旅へと誘う。 ぼくがまだ若い頃、20代半ばだった頃の話。 ぼくにとって念願だった。 その旅が決まった時、世界

オーストラリアの想い出 パーマカルチャーサイトの冒険② NSW州編

ニューサーズウェールズ州のネーボーさん宅で始まったwwoof生活。 日本から持っていった地下足袋を履き込んで、 氣愛充分!! なんでもやりまっせ〜!! と、意気込んでたところだが、 この辺りは農閑期。 それほどやることはないのだ。 ブレイクファーストを頂いて、 9時過ぎまで、草とったり、敷き藁を運んだり しているとネーボーさんとティータイム。 (奥さんは看護師さんで働きに出ている) ネーボーさんも初めての日本人と接する機会。 楽しかったのだろう。 このティータイムが延々と

オーストラリアの想い出③ バリの休日編

トランジットビザで、5月にオーストラリアに入国したぼくは7月の終わりに出国せねばならない。 ぼくはインドネシア バリ島へと旅立った。8月後半はパーマカルチャーのガーデニングコースを受けるので、バリは2週間の滞在だ。 なんでバリを選んだかと言えば、神奈川の実家に住まい鶴川というところで有機農業研修生をしてた時、神奈川南部の茅ヶ崎市茅ヶ崎美術館にて子どもを対象にした、庭の土作りから始めて、育てて収穫、そして乾燥させてからひょうたんカリンバを作るという年間通じたワークショップのス

オーストラリアの想い出④ パーマカルチャーベッーシックコースを受ける!の巻

バリの旅からオーストラリアに無事入国し、いよいよこの旅の最大の目的であるパーマカルチャー ベーシック ガーデニングコースを受けていた。 講師はヘッダー写真のジェイド。通訳は今まで何度か話に出てきたゆかりさん。 講習はジェード家の広い庭にて。 宿泊はこの地域のチベット寺院。 山の方に寺院は建っていて長い階段とマニ車があった記憶がある。 国際免許を取っておいたぼくは運転係をしていた。その分、コース受講料も値引きだ。 コースを受けたのは皆、日本人。 ぼくと同じようにオーストラリ

オーストラリアの思い出⑤最終回 ラストwwoofと今に繫がること

パーマカルチャーガーデニングデザインコースを終え、クィンーズランド州、デジャーデンゆかりさん宅でのwwoof生活が始まった。 スパイラルハーブガーデン、レイズドアップガーデン、チキントラクター、バナナサークル。 いろいろなパーマカルチャーのデザインが広い庭にて実践されている。 ゆかりさん宅でのwwooferはなかなか忙しい。 wwoofというのは、一応半日だけ働くことになっているのだが、ゆかりさん宅では家事や子どもの世話までするので、何気に全日(勿論ゆっくりする時間もある

オキナワの頃 其のイチ〈沖縄移住〉

ぼくがかつて4年間の間住んでいた竹富島。夕陽の時間に人々が集う西桟橋。水牛車の仕事の後はオリオンビールを片手にここによくぼーっとしに来た。 竹富島というところは、石垣島からの高速船で10分。この上の写真に見えるのは西表島。サンゴ隆起の島で砂の道、赤瓦の街並みが有名な島で人口350人くらい。島を離れてからでも、テレビでいきなり島と島の人々が出てきたりする。 ぼくは、29歳の時神奈川を離れて沖縄に移り住んだ。大好きだった沖縄。憧れの沖縄。最初は沖縄本島でゲストハウスを転々とし

オキナワの頃 其のニ〈島の暮らし〉

「水牛車ガイド 竹富島 三線に興味あるかた 」これだ!と思ったぼくは即連絡をし、いくらかのやり取りのあと採用の電話をもらって、今はなき有村フェリーで那覇港から石垣島へと旅立った。 ぼくは三線は神奈川にいるときから弾いていて、安里屋ゆんたなどの沖縄民謡や沖縄ポップスの何曲かは弾けるようになっていた。周りの人からもぴったりだと言われ、もうこれだ~!!と意を決して船に乗り込んでいったのだ

オキナワの頃 其の三〈島の暮らしⅡ〉

島は観光シーズンは人で溢れる。特にGWとお盆休み。その期間の水牛車の受付はまるで渋谷のスクランブル交差点かって思うくらいに人で溢れかえる。暑い上に忙しさで頭から蒸気が出る。 逆に12月の頭から冬休みに入る前までとGWが終わる頃から始まる梅雨の間、この期間は恐ろしいくらい暇だ。 この会社は島の文化や暮らしを伝えることに関しては厳しかったが、この暇な時期の暇すぎる時間に水牛車の上で三線や島唄の練習をしたり、昼寝したりということには寛大だった。沖縄時間、島時間というやつである。

オキナワの頃 其の四 〈種子取祭〉

竹富島の種子取祭は、毎年秋(旧暦に合わせて行う)に行われる。観光客が多い夏休みシーズンが終わると、島は一気に種子取祭の準備へと向かう。夜、公民館前を歩いてると必ず踊りの練習風景が見られる。種子取祭は、600年前から伝わる祭りで国の重要無形文化財に指定されている祭りだ。竹富島創世記、六人の酋長によって種子を蒔く日取り争いから、日にちが統一され種子取祭が始まったと云われる。世持御嶽という火の神と農耕の神を祀るウタキで行われ、二日間に分け80もの踊りや芸能が奉じられる。踊りや芸能は

オキナワの頃 其の五 〈島の美味しいもの〉

ぼくが竹富島にいた頃、食堂、レストランは幾つかあった。今はリゾート開発が進んだり、石垣島の空港が大きくなったりで観光客がさらに増えてカフェやレストランがもっと増えてるみたいだが。ぼくが勤めていた新田観光の隣にあるそばや「やらぼ」。ここには昼休憩によく通った。ソーキそば、八重山そば、野菜そば。どれも美味しいのだけれど、特に野菜そばにはまった。美味しくて、美味しくて、毎日のように食べた。大分県出身の同僚によるとこの野菜そばは九州で言うところのチャンポンににている味だとの事だった。

オキナワの頃 其の六 〈出会い、結婚、そして〉

何度も来る猛烈な台風、三線の鳴り響く島の風景、毎日のように食べたそば。そして、水牛達。そんな島の日々も終わりが近づいてきた。 ぼくは20代の頃は結婚はしないで、ずっと気ままに一人でいよう、結婚なんて紙切れ上の形式に過ぎないんだ、なんて思ってたのだけど、何度かの異性との付き合いも経て、つきあっては別れての繰り返しをしていてもなあとか、30過ぎて少し体が弱ってきたり、風来坊的生活からくる不安や寂しさなんてのも合わさって、結婚した方がいいんじゃないか、よし次に付き合う人は結婚する

オキナワの頃 其の七 やちむん通り

ぼくらの壷屋やちむん通りの生活が始まった。やちむんとは沖縄の方言で焼き物の事。国際通りから平和通りを抜けると、やちむん通りが始まる。壷屋は沖縄の陶芸の中心であった場所であるが、登り窯から出る煙の公害問題で、陶器を焼く場所は壷屋から読谷村に移り、電気やガスの窯になっていったりで、現在はやちむん販売店が建ち並び、沖縄の歴史と文化を感じられる観光スポットの一つだ。 沖縄のやちむんが注目され始めたのは大正期から昭和初期、「用の美」をテーマとする民芸運動をすすめた柳宋悦らの目にとまり

オキナワの頃 其の八 パラダイス通りの黄昏

三線をメインにした自分のお店を持つ。やちむん通りで働きながら少しずつ準備をしていたぼくは2010年の秋、遂にお店を開く場所を決めた。国際通りから折れて平和通り、浮島通り、パラダイス通り、沖映通りを毎日のように歩く。家賃、広さ、国際通りからの距離などを考えて。これはと思っても中に入るとぼろすぎたり、家賃が高かったり、広すぎ狭すぎ、なかなか思うような貸店舗には巡り合えなかったけど、ある日パラダイス通りを歩いていた時、丁度好さそうな物件を見つけた。家賃七万の小さな貸店舗だ。パラダイ

オキナワの頃 其のゼロ 本島上陸、ひめゆりの塔

29歳の秋、ぼくは長年の夢、沖縄移住を果たすため、生まれ育った神奈川を飛び立った。 ハタチを過ぎた頃、家族の事でとても傷ついたことがあって、その後、沖縄を旅したときにとても心が癒されて、それ以来沖縄の文化、音楽、気候風土が大好きになって、いつか沖縄に住みたいと思うようになった。 神奈川で活動する八重山民謡ユニット〈みるく〉(石垣島を中心とする八重山地方では弥勒様をみるく様と呼び、それをユニット名にしていた)。そのみるくの後を金魚のふんのようにくっついてまわり、銀座わしたショ