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【俳句】梅若忌5句+美少年1首

都鳥あはれに聞こゆ梅若忌

母を撫づる柳の影や梅若忌

梅若忌川面にそよぐ南無の声

幻も雨に泣くかな梅若忌

塚ぬれて拭ふ人あり梅若忌

梅若忌(うめわかき) 晩春

謡曲「隅田川」のなかの人物梅若丸の忌日で陰暦三月十五日。人買いにかどわかされた梅若丸が隅田川で行き倒れた日である。現在は四月十五日に木母寺で法要が営まれる。

インターネット歳時記『きごさい歳時記』より


*謡曲『隅田川』あらすじ
行方不明になったひとり息子を探しに都からはるばる東国までたどり着いた狂女が、隅田川の渡し守から、向こう岸の柳の下で大勢の人が唱えている念仏は、ちょうど1年前に人買いに連れて来られ、長旅に病んでその場に見捨てられて亡くなった男の子を弔うためのものだということを聞く。詳しく問えば我が子の梅若丸だということが分かる。梅若丸が臨終の際、世話をしてくれた人々に、墓標となる塚を築き柳を植えて欲しいと言ったその場所で、母である狂女が念仏を唱えると、それに合わせて梅若丸の南無阿弥陀仏の声が聞こえ、次いで姿を現し、母が抱こうとすれば塚に隠れてしまう。見え隠れしていた幻は夜明けとともに跡形もなく消え、ただ塚には草が茫々と茂っているだけであった。

 梅若丸を探す母と隅田川の渡し守とのやり取りの中で、『伊勢物語』の第9段「あづま下り」で隅田川まで来た在原業平の読んだ「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと(都という名の付いている鳥(ユリカモメ)よ、教えておくれ、都にいる私の愛おしい妻はまだ生きているのかどうか)」という歌が出てくる。
 いなくなった子の行方を問うのも、妻を偲ぶのも思いは同じ恋路なのだから、あの鳥の名はと尋ねたら、かもめと言わずに都鳥とお答えにならなくては、と母は渡し守を咎める。
 約50年前までユリカモメは京都にはいなかったのに都鳥と呼ばれたのは、一説には「ミャー」と鳴くからだとか。

 最後に出てくる子方(子役)の演出について、世阿弥は「子はすでに亡者なのだから出さない方が面白い」と言い、この謡曲の作者の長男の元雅もとまさは「出さないことは難しい」と意見が分かれたが、実際にやってみなければ良し悪しは決められないと(その会話のあとにおそらく世阿弥がそう言ったであろうことを)次男の元能もとよしは記している(父の教えを書き残した『世子六十以後申楽談儀』より)。現在でも子方の扱いは分かれている。

 金春流こんぱるりゅうの能『隅田川』を見た芥川龍之介は、女形をやまの桜間金太郎の美しさもあり、「梅若丸の幽霊などの出ないことを少しも不服と思は」ず、次のように書いている。

かう云ふ時にもわざわざ子役を使つたのは何かの機会に美少年を一人登場させることを必要とした足利時代の遺風かとも思つてゐる。

『金春会の「隅田川」』より


 戦国時代から江戸時代初期にかけて、政治的にも美少年がいかに重要な存在だったか、以下の対談を読むとよく分かります。


 視覚化するか否か。名優・緒方拳の最後のひとり舞台『白野-シラノ-』では、彼の師である島田正吾が主人公の白野弁十郎(シラノ・ド・ベルジュラック)を演じる際に付けていた大きな鼻を取り去った。



 最後に一首。

捨てられしシラノの鼻は隅田川に花をそへたる美少年かな



〈参考文献〉
『日本の古典をよむ17 風姿花伝 謡曲名作選』(小学館)
『日本思想体系24 世阿弥 禅竹』(岩波書店)
『芥川龍之介全集』第11巻(岩波書店)

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