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【小説de俳句】『死者の書』折口信夫

鴨鳴きておもかげひとつ残りけり

其でもおれの心は、澄みきつて居た。まるで、池の水だった。あれは、秋だつたものな。はつきり聞いたのが、水の上に浮いてゐる鴨鳥カモドリコヱだった。今思ふと──待てよ。其は何だか一目惚れの女の哭き聲だつた氣がする。──をゝ、あれが耳面刀自ミゝモノトジだ。其瞬間、肉體と一つに、おれの心は、急に締めあげられるやうな刹那を、通つた氣がした。俄かに、樂な廣々とした世間に、出たやうな感じが來た。さうして、ほんの暫らく、ふつ、、とさう考へたきりで……、空も見ぬ、土も見ぬ、花や、木の色も消え去つた──おれ自分すら、おれが何だか、ちつとも訣らぬ世界のものになつてしまつたのだ。

折口信夫全集 第廿四巻 作品4 創作
(中公文庫)


謀反の疑いで命召され、二上山に埋葬された滋賀津彦しがつひこは、死の直前に見た耳面刀自の魂を、50年後の世に生きる藤原南家郎女ふじわらなんけいらつめの中に見出す。

魂の道のひらける中日や

なも 阿彌陀ほとけ。あなたふと 阿彌陀ほとけ。

同上

この美しく聡明な姫は、唐からもたらされた新訳の阿弥陀経の写経をし始めてから、春分と秋分の彼岸中日、二上山の男嶽と女嶽の間に、神々しい阿弥陀仏の姿を見る。次の春分の日、千部目の最後の文字を写し終わり、窓を見ると、雨。仏の姿を見ることの叶わなかった姫は、その夜、神隠しに会ったように、ひとりでひたすら西へ西へと歩き、二上山の麓の女人禁制の寺へ着く。


伝へたき思ひに宿るいのちかな

このヂユウ(注:この前)申し上げた滋賀津彦は、やはり隼別ハヤブサワケでもおざりました。天若日子アメワカヒコでもおざりました。テンに矢を射かける──。併し、極みなく美しいお人でおざりましたがよ。

同上

女人結界を犯した罪を贖うため、寺の近くのいおりに籠っている姫のもとに、夜な夜なつたつたと訪れる足音。姫は滋賀津彦と仏の姿を重ねる。姫に昔語りをする土地のオムナは、天に弓を引いた天若日子、隼別皇子、滋賀津彦を同一視する。姫と切り離された媼の魂は、二上山に現れる尊い裸身に纏わせるための布を織る姫の夢の中に、織り方のコツを教える尼となって現れる。


*滋賀津彦のモデルのひとりは大津皇子。
「もゝつたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」(万葉集 巻3 416)

*藤原南家郎女のモデルのひとりは中将姫。奈良の當麻寺に伝わる『当麻曼荼羅』を織ったとされる、日本の伝説上の人物(wikipediaより)。

*写真は以下のサイトよりお借りしました。
(川本喜八郎監督の人形アニメーション『死者の書』より)


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