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「言葉」を身体で感じて使う

 コンビニに行くと「レシートをご利用ですか?」と聞かれる。鼻をかむには水分を吸収しそうにないし、メモをするにはクルクルして管理しづらい。レシートをどう「ご利用」すれば良いですか? と聞き返したくなる。そもそも「ご利用」ではなく、「ご入用」の言葉の間違いなのだが、何となくこれを良しとしてしまっている雰囲気がコンビニの店員だけではなく、私のなかにもありそうだ。
 子どもの頃、居酒屋デビューをしたら、「とりあえずビール」と並んで「おあいそ」という言葉を使ってみたかった。なんとなく艶っぽい大人の世界に仲間入りするような特別な言葉に感じていた。しかし、「おあいそ」の意味を調べてみると、「愛想尽かし」と出てくる。食事の勘定をするときに、「おあいそ」というと、「不味かったので二度と来ない」と言っていることになる。それなのに、多くの人が「おあいそ」という言葉を使い、それを受けて「喜んで」とか「ありがとうございます」と返答している。なんとなくの雰囲気で会話が成立しているから面白い。
 昔、コピーライターの重鎮の方に文章が上手くなりたかったら、古典文学を書き写せと言われたことがある。古典文学には手で書くことでわかる言葉の美しさや音、リズムの心地よさがある。近頃、文章は「書く」から「打つ」に変わり、言葉の美しさや心地よさを感じることが少なくなった。雰囲気で会話が成立するのは、体感を伴って言葉を使えなくなってきているのではないだろうか。
 言葉は時代によって変化していくものだと思う。しかし、言葉にはその意味以上の力があると私は考えている。例えば「ら抜き言葉」は、身体のためにも「ら」は抜かない方が良い。なぜなら、「食べれる」と「食べられる」を発音してみるとわかる。「ら」が入っている方が、身体が緩んで胸(ハート)が開いてくるのがわかる。ら抜きされる言葉は、受容的な場面や可能性を表現するときに使われることが多い。言葉を通して身体を緩め胸を開いていくことで、物事を受け入れたり、可能性を開いたりしているのではないだろうか。
 そんな私も、ら抜き言葉を使って妻に指摘される。コピーライターなのにと驚かれるのだ。生まれ故郷の和歌山弁だと言い張ってみるが、「普段、和歌山弁使ってないでしょ」と追い込まれる。素直になれない自分とそろそろ「おあいそ」できないものか。

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