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「採集」は、科学か芸術か。

数冊のアートブックから妄想したこと。

① Karl Blossfeldt  『芸術の原型』  


植物をミニマルに撮影し続けたカール・ブロスフェルト。
美術の教師だった彼は、これらの植物のクローズアップ写真を、授業の教材にするために手製のカメラで撮影したのだという。
ブロスフェルトの肖像を見ると、つばの広い帽子を被って、ゆたかな口髭をたくわえ鋭い視線をカメラに向けるワイルドな風貌で、身近な自然を見つめるミクロな視点や、6000枚にもおよぶ同じような写真を淡々と撮影したことと、少々ギャップがあるように思ってしまう。

ブロスフェルトに撮影された植物たちは、まるで彫刻か絵画のよう。
モノクロームの銀塩プリントの無機質で金属的な質感は、これらが弾力のある細胞の集合体であるのを忘れさせ、拡大レンズで鮮明に写し出された葉脈や花弁の凹凸やうぶ毛などのよくできたディティールについ見入ってしまう。
どれも完璧な形をしていて、人工的な意図をもって作られたものかのような、数学的黄金比の均整の取れたフォルム。ブロスフェルトはそれを際立たせるようにグラフィカルに切り取っている。
この植物たちの姿、驚異的な自然こそが美の原型であるとブロスフェルトは考えていたようだ。

カール・ブロスフェルトは、1920年代にドイツで興った「新即物主義」といわれるムーブメントの代表的な作家とされている。
新即物主義とは、ロマン主義や表現主義への反動から生まれた、客観性や簡潔性に重きを置いた芸術運動で、合理的でリアリズム的な表現が特徴と言われている。
ゆえに、ブロスフェルトの写真も、判で押したように「客観的」「はなはだしい冷静さ」「機械の視線」などと解説されることが多いけど、はたして本当にそうか?と、私は疑問に感じるわけである。
たしかにそういう面もあろう。けれども客観的というより、ブロスフェルトの視線は、かなり偏ってはいないだろうか。「はなはだしい冷静さ」とはかけ離れた狂気のようなもの、フェティシズムを感じはしないだろうか。
ひたすら形態をコレクションするブロスフェルトのフレーミングはどこか変態的であり、そして、そんな視線を通過して現れる像は、美の原型というよりも、なんだかとても奇妙な物体に見えてこないだろうか? たとえば、人工的につくられた未知の生物、といったような…。
いずれにせよ、リアルどころか、植物の概念を超えた何か別のものになってしまっている。


ところで、この感じは、後のベルント&ヒラ・ベッヒャー夫妻の「タイポロジー」にも通じていると私は思う。
簡潔さといい、形式的・規則的・継続的であること、完璧主義なところまで、ベッヒャー夫妻のスタイルはブロスフェルトとまったく同じ。このオタク気質のアートは、ドイツのお家芸なんだろうか。
写真から感情を排除し、ひたすら羅列する彼らの態度は、作品制作というよりも、採集・記録のフィールドワークに近く、なおかつ、ブロスフェルトもベッヒャーも、美術的表現ではなはく「採集」そのものを目的としている節があるような気がする。
したがって、彼らの作品は、個々の被写体やプリント云々ではなく、総体として見なければ掴めないし、まさに「類型学」「博物学」などのサイエンスに集約されるものでもあると思うが、一方で、採集を続けるという行為自体が極めてアート的だと思う。

ベッヒャーが被写体としたのは、給水塔や工業用エレベーターなどの産業施設であるが、これらの人工的な建造物が、生き物のように見えてくることはないだろうか。私は、ベッヒャーの写真集を眺めていると、「珍奇な巨大生物の図鑑」を眺めているような気分になるときがある。
やはり、これらの建造物たちもブロスフェルトの植物と同様に、執拗に形態のみを抽出することで、本来の意味を超えた存在になってしまっているからだと思う。
タイポロジー写真とは、同じ種類の対象物を被写体としたイメージを集積させることで差異や同一性を見出そうとする写真表現だが、ベッヒャーが量産したイメージたちは、そのコンセプトをさっさと通り越してずっと先にいる。
ブロスフェルトやベッヒャーは実際のところ何を撮っていたか。コレクションが増えるほどにわからなくなってくるのだが、建造物や植物という概念を超えて、もはや謎の宇宙物体でしかなくなった“彼ら”に名前をつけたり、生物とか人工物とか分類したりするのはナンセンスである。
デカルトならすべてひっくるめて「機械」と言うかも知れないけど、私は、これらを、人間によって発見され採集された「超自然」、とでも言うのがしっくりくる気がする。

ブロスフェルトの「超自然標本」がアートなのか科学なのかはさておき、人を惹きつける得体の知れない魅力があるのは確かだ。
ブロスフェルトの写真は、まるで植物たちのポートレイトのよう。
それぞれ表情豊かにポーズを決め、意志さえ持っているのではと思える。
そして、ほとんどがそれほど珍しくはない植物で、私たちにも馴染みのある草花なのに、すぐには何の植物か気がつかない。彼らは、私たちの知っているのとはちょっと違う顔をしている。
私は、ブロスフェルトの植物写真を見ると、隣人の知られざる秘密の顔をうっかり見てしまったような若干のうしろめたさ、見てはならないものを見てしまったという微妙な気まずさを覚える。
ブロスフェルトの植物たちは、世界の隅々まで行き渡っている見えざる力、「超自然」を発生させる宇宙の法則を、無言で知らしめるように、不敵な笑みを浮かべているようである。



② 南方熊楠 『菌類図譜』


熊楠、狂ってるなー。でも超カッコいい。
というのが、このキノコ図譜の実物を見たときの率直な感想。
かなり前のことになるけど、ワタリウム美術館で見た、コラージュ作品のような熊楠の採集記録の展示に度肝を抜かれた記憶がある。

繊細なドローイングスケッチと、筆記体の欧文で細かい文字が書かれ、ところどころに貼り付けてある胞子を入れた新聞の包みや、実物のキノコ(押し花ならぬ押しキノコ)が貼り付けられていたりするA4サイズのシート。
新聞、横文字、学術記号、焼けた紙、クリップの錆、インクの染み。こういった要素がいちいち洒落てて「アート」感満載だし、花とか鳥じゃなくてキノコ、というマニアックなモチーフもポイントで、私は、熊楠の図譜のビジュアル的な魅力にすっかり衝撃を受けたのである。

熊楠の図譜の特徴で最大の魅力は、直観的でライブ感が溢れているところ。
ドローイングもさることながら、書もいい。縦、横、斜め、あるいは絵をぐるりと囲むように紙の上を縦横無尽にはびこるアルファベット文字。繊細で流れるようなその筆運びは、精密ななぐり書き、とでも言いたくなるが、何かに憑依されて書いたかのような物凄さがある。
でもって、構図が絶妙。計算されたかのようなバランスのグラフィック感覚。
細かい文字でびっしり埋め尽くされていると思いきや、よくわからない余白あり、描きかけのような中途半端なドローイングあり。いったいどんな気まぐれなのか知らないが、非常に即興的でリズミカルなのだ。

さて、これを描いた南方熊楠とは、いったいどんな人物かというと、一般的には、生物学者、博物学者、民俗学者、エコロジストなどと様々に言われているが、結局のところ何をやった人なのかいまいちはっきりしない。
自然科学の広範な分野でさまざまな研究を行い、語学堪能、絵も描けば執筆もする、思想家のような面もあるが、明確に認められている実績といえば「粘菌研究に尽力した」という、漠然としたものでしかない。
熊楠は、大量かつ高度な専門知識を持っていたのには違いないが、実はちゃんとした学者としては評価されておらず、あくまでアマチュア的な扱いの、草の根学者といったポジションだ。
その理由は、まともな書式の論文をほとんど書いていないため。このキノコの図譜も記述は自己流で、書式を無視して自由に書かれている。
標本の保管にはキャラメルの空箱を愛用→そのまま昭和天皇に献上、というエピソードからもわかるとおり、体裁を気にしない無頓着なところがある熊楠は、学者としての社会的成功にはまったく興味がなかったのだろう。
ゆえに熊楠の評価は長らく、生涯にわたって植物、化石、鉱石、貝類、甲殻類、蜘蛛、土器などを採集し膨大な資料を遺したコレクター、あるいは観察者としての評価にとどまっていた。

熊楠が学会や論文そっちのけで、ひたすら湿った山の地面を這いつくばって採取し、描いた3500枚に及ぶキノコ図譜を見て、私は思い出すものがある。
レオナルド・ダ・ヴィンチのノートだ。
ダ・ヴィンチが探求したあらゆる領域の知見を書き連ねたノート。精密な解剖図や数式や図面や、ダ・ヴィンチが思いついた謎の機械のアイデアなどが細密なスケッチとテキスト(なぜか鏡文字)で記されたあのメモによく似ている。

レオナルド・ダ・ヴィンチは、絵画の巨匠でアーティスト、というのが最もメジャーな認識だと思うが、同時にあらゆる学問に精通していて、発明家・科学者としても多くの業績を残したことも誰もが知っている有名な話だ。
ダ・ヴィンチの生きたルネサンスの時代、絵画は装飾品である以上に記録・伝達の手段であり、あくまで「技術」。技法なども含めて、かなりサイエンスの要素があったはずだし、当時は芸術と他の学問に垣根はなく、そもそも科学という言葉もまだないので、科学的論理とアート的なものが入り混じっているのは別におかしなことではない。とはいえ、ダ・ヴィンチのノートはあまりに圧倒的で、やっぱり、誰の目にも常軌を逸したものに見えるだろう。

ダ・ヴィンチと熊楠のメモの最大の共通点。
それは、人に見せるために書かれたのものではない、という点である。
情報を他人に伝えたり共有する目的ではなくて、あくまで自分のために書いている、ということだ。意識的なアウトプットではなく、自分が興味を抱いたことに関する情報を、インプットする過程の無意識の生成物なのである。
採取し、観察して得た知見のデータベースの中枢はあくまで彼らの脳内である。
これらのメモは、学者の脳髄という巨大サーバーに体系化して格納される以前の未整理のRAWデータのようなもの、あるいは、サーバー内の情報にアクセスするガイドにすぎず、「科学」と明言するには客観性に欠けるものかも知れない。

ダ・ヴィンチは、当時としてはかなり長寿であったのに、遺した絵画作品は驚くほど少なく、仕事や芸術のためではなくて、好奇心の赴くままに探求すること自体が、ダ・ヴィンチの生涯かけた目的だったような気がする。
熊楠の方も、キノコ図譜は、いずれ図鑑を出版するための資料ということだったらしいが、本当に出版する気があったのかは疑問で、採集・観察を続ける大義にすぎなかったのではないかと思える節がある。
「これが何の役に立つ事か自らも知らず」「寒苦を忍び研究す」。
本人もこう記しているように、熊楠は、何のためなのか自分でもわからない研究に没頭していたというわけだ。

目的のわからない無心の探求、という作業。
得てして芸術家はあらゆる手段で無我の境地を目指すものだが、それを天然でやってしまうのが科学者なのである。
もっとも、見えざる本質の追求という点においては、芸術と科学は同じもの。実態を概念化することが科学の回路で、概念を具現化することがアートの回路、それだけの違いである。
そして、宇宙の断片である神秘なる自然の実態を観察することは、ある意味、アート以上に直観的な感性を要することかも知れないのだ。
熊楠のキノコ図譜や、採集と観察に明け暮れた生き方を、アートとして評価する見方が出てきたのも当然だといえるだろう。


意図を超えてサイエンスになるアート。
意図のなさゆえアートたるサイエンス。
芸術と科学は紙一重。

以上、ブロスフェルトと熊楠を皮切りに考えた妄想でした。




余談だけど、
限局的な興味、並ならぬ記憶力とこだわり。内向的で律儀な人柄ながらキノコについては他人の間違いをめざとく指摘、書物や書きかけの原稿が散乱する書斎。睡眠障害、神経過敏、てんかんの持病。熊楠は典型的なアスペルガーで、ダヴィンチはADHD全開、ですよね。


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