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『よろこびの機械』 レイ・ブラッドベリ

2023年初頭の現在、全方位でバーチャル世界は拡大の一途を辿り、我が日本でもコロナに後押しされたかたちで地味ながら着々とDX化は進行し、この1年ほどの生成系AIをめぐる過熱ぶりは目に余る。いわゆるシンギュラリティーというやつは予想されていたより早くやってきそうな雰囲気になってきたし、少なくとも数年以内には、いよいよ人間のアルチザンとしての実存的価値はほとんどなくなるだろうから、我々は今のうちに、来たるべきデジタル化した中世のような世界に対応する生存戦略を立てねばらない。
だなんて、ITとか最新テクノロジーに超絶に疎いはずの私ですらそんな危機感をひしひしと身に染みて感じる今日この頃。

現在の世界は、かつて経験したことのない速度での変容に伴う移行期の混乱の最中にあり、先の見えない不安が蔓延しているのは紛れもないことだと思うが、その一方、満遍なく普及した安定的なインフラの上でかつてないほど豊かで便利な生活が実現しているのもまた事実だ。
もちろん戦争や貧困や環境破壊といった問題は多々あれど、悲観的印象論を取り払って冷静に現象を観察する限り、人類は相対として史上最も平和的・健康的であるし、今後もより生存が容易な世界がやってくるだろうと予想できる。
今や人類は、科学技術によって苦痛から逃れつつあり、有り余るパンとサーカスを享受しているわけだが、このような自然から切り離された快適かつ享楽的な暮らしを可能とした現代文明は果たして堕落しているのだろうか。



アメリカのSF作家、レイ・ブラッドベリの『よろこびの機械』という妙なタイトルの短編。二十歳くらいの頃に初めて読んだ時は、あまりピンと来なかったこの小説が今、沁みてくる。

主人公は、アイルランド人の神父ブライアン。彼は、敬虔なカトリック教徒で、最新のテクノロジーに浮かれる世相を憂い、宇宙開発に熱狂する大衆を軽蔑する。
方や、ブライアン神父の同僚のイタリア人、ヴィットリーニ神父は世俗的だ。ロケットや異星人の話題で持ちきりのテレビという“ゴースト”にうつつを抜かして徹夜までする始末。そんなヴィットリーニ神父にブライアン神父は我慢ならない。
それだけならまだしも、ヴィットリーニは、ヴァチカンが宇宙侵略を肯定する発表をしたなどという噂まで口にする。もしそれが事実だとしたら教会も堕落したものだし、事実でないとしたらヴィットリーニの冒涜的発言を見逃すことは到底できない。
ブライアン神父は同じくアイルランド人のケリー神父と共に、法王の回勅を調べ始めるのだが、そんな二人に主任司祭は問う。
あなた方は、なぜヴィットリーニを恐れるのか。



ところで。
ここ最近、「よろこびの共有」というような言葉をあちこちで耳にするような気がするのは私だけだろうか。
少なくとも「共有」は、産業、アート、ビジネスやマーケからスピリチュアルまで、さまざまな界隈で新時代のキーワードとして定着していて、蓄積や独占ではなくシェアしようという感覚は、もはや新しい道徳のようなニュアンスをも含んでいる。
さらに、令和時代となったあたりからだろうか、身近にも著名人にも「よろこび」や「感動」のような、そういうポジティブな言葉をストレートに語る人が目に付きだした。
それまでは声を大にして語るのが憚られたくらい単純すぎる「よろこび」というコンセプトが、一周回って新鮮に響きだし、また、その単純すぎるメッセージを真正面から受け取ることのできる土壌が出現したような。
総じて、自己犠牲を美徳としたり深刻な顔で理屈を捏ねることの不合理が認識され、個々が好きなように人生を楽しみ、余剰は利他的に活用して分かち合いましょう、というリベラルな価値観がスタンダードになりつつある。
世界はポジティブに開かれ、健全なる相互扶助社会に向かう、明るい流れの中にあるのだと思う。


よろこびの共有。
この合理的で、楽観的で、情念のない「風の時代」的気分に、私は激しく同意しつつも、正直なところまだ馴染みきれないでいる。
もちろん理解はできる。まあ体感もある。なのだが、今更、そんなおめでたいオープンマインドにはなかなかなれるもんじゃない。若干、肩透かしをくらったような気分というか。
足枷をつけて歩くのに慣れすぎた故か、生涯の友としての苦悩はあっても、よろこびが何だかいまいちわからない。快く他人に分け与えられない。そもそも私はシェアできるようなものなど何ひとつ持ち合わせていない。
そんな気持ちが、いまだ完全には抜けきらないわけで。



人間は神のお作りなった「よろこびの機械」ではないかというヴィットリーニ。

ブライアン神父の恐れの本質は、よろこびを知ることではなかろうか。

私は、ブライアン神父の心持ちをよくよく想像することができる。
罪の意識。古いシステムへの依存心。南国の陽光のもとに生まれる楽天的無邪気さへの羨み。ブライアン神父には苦しみに耐えている自負がある。
しかし、ブライアン神父は知っているのだ。
苦しみの味を分かち合うことは慰めにすぎず、それによって救われることのないのを。しかめ面を気取るのを神は好まないのを。

よろこびを知ることは、堕落でもなければ、神の消滅につながるものでもない。
物語の中で引用されるウィリアム・ブレイクによると、神的なものと科学技術、あるいは社会経済的ものとは対立する概念では決してないのである。
二元的な善悪を否定し、物質世界も肉体的欲求も共に神の秩序の一部であり、生きとし生けるすべてのものは神聖であると唱えるブレイクの宇宙観に従えば、科学技術や、人間が自然に与える脅威すらも神の手の内にあるのだから。


よろこびを知らない者など誰一人いないし、ましてやよろこびは、苦労の末に獲得するものでもない。ただそれにアクセスできるかどうかだ。
現象に敏感になることだ。あくまでライトな感覚で。そうして、すぐそばにある些細なよろこびを受け入れ、最大化することによってのみ「よろこびの共有」は達成されるのだ。
たとえば、コンビニで水が買えること、好きな音楽が聴けること、地球の裏側の人と会話ができること。これらが大いなるよろこびでなかったら一体何だというのか。世界に身を委ねると、そこには無限のよろこびがある。


イタリア人との和解を受け入れたブライアン神父は祈る。
苦しみを知らないことを、苦しみそのものの消失を、人類の進歩と調和を、屈託のない心で祝福できるように。
ロケット打ち上げのお祭り騒ぎを見物しながら、ブレイクが言ったかも知れないように、自らがよろこびの機械となるようにと。
そうだ、エデンを放たれた人間が、苦しみの世で歓喜のままに生きることこそ神のお望みになったことではないか。

どうか神さま、あなたのよろこびの機械たる我に祝福を与え賜へ。









サムネの写真のこと

以前持っていたハヤカワ文庫を手放してしまっていたので、急に読みたくなりもう一度買おうと思ったわけだが、どの書店にも在庫がなくやむなく古書を探して注文したら偶然にも古いペーパーバック版が届き、デザインかっこいいなと思いながら手元にあった金属製のたまごのオブジェを横に置いてみたら、表紙のイラストとマッチしてSF感出ててなんかいい感じじゃん、みたいな写真です。


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