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【傑作】Netflixで『ドライブ・マイ・カー』観ましたー。


はじめに

 Netflixで村上春樹さんの短編小説を実写化した映画、『ドライブ・マイ・カー』鑑賞しました。視聴自体はずいぶん前に完了していたのですが、この作品から受け取った思想や主張を自分の中で咀嚼し熟成させるのに時間がかかってしまいました。

 原作の『ドライブ・マイ・カー』は未読なのですが、映画の本作では、序盤で主人公の西島さんの奥さんが不倫エッチしてる描写があり、実はそこで一度観るのを止めてしまっていました。
 性的なシーンが多い作品なのかと戸惑ったのが原因でしたが、私の好きな人がとてつもない作品だったと高評価を漏らしていたので、鑑賞を再開しました。

 村上春樹さんの作品と云うと、人生の苦しい状況を乗り越えて、喪失感を抱えながらも前向きに、哲学者のように生きていく人物が描かれた作品が多い気がしています。
 私なりに、この作品から感じたこと学んだことを記録していきたいと思います。

個人的な評価

ストーリー  S
脚本     S
構成・演出  A+
俳優     A+
思想     S+
音楽     A
バランス   A
総合     S

S→人生に深く刻まれる満足
A→大変に感動した
B→よかった
C→個人的にイマイチ

冒頭のあらすじ

 家福悠介(西島秀俊さん)は成功した俳優・舞台演出家で、妻の音(霧島れいかさん)も脚本家として多くのテレビドラマを手がけています。二人には娘がいましたが、幼いころ肺炎で亡くし以後は二人だけで暮らしています

 夫婦の間には、長く続く二人だけの習慣がありました。一つは家福が舞台の台詞を覚えるときの方法で、家福は、相手役の台詞部分だけを音がカセットテープに録音し、それに自分の台詞で答えながら台本を覚えてゆくという手法を好んでいました。
 家福は愛車「サーブ900ターボ」を運転するときにこのテープを流し、自分の台詞をそらで繰り返しながら台本を身に染みこませます。もう一つの習慣は、夫婦のセックスの最中に音が頭に浮かぶ物語を語り、家福がそれを書きとめて音の脚本作りに活かすことでした。音はこのやり取りを経て脚本家としてデビューし成功しました。

 この二つの習慣は、子供を失ったあとずっと続いています。夫婦はこうして心の傷を乗り越え、穏やかで親密な生活を築いていました。

 ある時、家福はウラジオストクの国際演劇祭に審査員として招待され空港へ向かいます。ところが、空港に着いたところで航空便欠航のため渡航を1日延期するよう現地の事務局から連絡を受けます。
 あえてホテルに泊まるまでもないと家福が家に戻ると、妻の音は、居間のソファで誰かと激しく抱き合っていました。それを見た家福は物音を立てぬよう、そっと家を出ます。家福はホテルに部屋をとり、ウラジオストクへ着いたように装って音へ連絡し、いつも通り言葉を交わしました。

 家福はこれまでの夫婦の生活を守ることを優先させました。音は家福が情事を目撃したことを知らず、家福も自分が知っていることを明かしませんでした。
 自動車の中で台本を暗記する習慣も、変わらず続きました。いま家福が取り組んでいるのは、チェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』でした。
 家福は自分が運転する自動車の中で、音が抑揚を欠いた声で読み上げる「仕方ないの、生きていくほかないの。…長い長い日々と、長い夜を生き抜きましょう」というチェーホフの台詞を聞き続けます。

 そしてある日、音が急死します。それは音から「帰宅したら話したいことがある」と言われた日の夜でした。家福が家に帰ると音は床に倒れていて、意識を回復しないまま亡くなります。最後の別れを交わすこともできませんでした。

感想

 この映画は、愛する人を失って傷ついた人が、自分にとって大切な人を愛してはいたけれど、愛するあまり傷つけられていたことに向き合っていなかった、という苦悩に対峙する作品です。
 作中、聴覚障がいを持つ劇団員の女性を気遣った西島さんに対し、その女性が『他の人よりも優しくしてもらう必要はありません。自分の言葉が伝わらないのは、私にとって普通のことです』と手話を返したのに衝撃を受けました。

 必要以上に心配するのは平等に扱っていない、ひとりの大人として信頼していないという見方もできます。これは、事を荒立てずに黙認する行為は、もはや愛していないから表面上の平和を重んじて本音を言わない、という西島さんが妻の不倫を見過ごし続けた件についての置換えになるわけですね。
 
 また、言葉にすればすべてが伝わるわけではないように、その逆で言葉にしなくても伝わってしまうことがあります
 では、どうすればいいのでしょうか?おそらく、村上春樹さんが言いたいのはああすればよかった、こうすればよかったという外界の結果論ではなく、そのときあなたはどういう想いでその判断・行動をしたのか?という点にあると思います。

 西島さんは妻に想いを掛けてはいましたが、正念場で妻である音よりも自分の現実生活が破綻しないことを優先しました。そのことを西島さん自身が一番分かっていて、そのせいで妻を永遠に失ったと悔悟します。
 相手のためにやっているようでいて、実は自分のためにやっているだけのこと。相手のためにやったことが、自分のためになること。自分のためにやっているようで、相手のためにやっていること。外観上はすべて同じ行為ですが、その内心を透視できるとしたら、似て非なる行為なのでしょう。

 よく云われることですが、やった後悔とやらなかった後悔ではどちらがマシなのかという議論の論点にも通じます。ある人は、フルスイングの三振は見逃し三振より後味がいいと言います。
 またある人は、やらなかった後悔を口にする人間は、他人を傷つける性質の取り返しのつかない失敗をしたことがないだけだ、とも言います。

 正解のない人生哲学的な議論ではありますが、私も人生に悔いを残さないよう、縁ある人々を大切に、誠実に生きていかなければならないと、深く自戒させられた映画でありました。

 『真実はそれがどんなものでもそれほど恐ろしくない。いちばん恐ろしいのは、それを知らないでいること…』 チェーホフ


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