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稲荷山古墳出土鉄剣 その1

 御墓山古墳の被葬者と目される大彦命について探ってみたところで、稲荷山古墳に言及しておかないわけにはいきません。この鉄剣銘文の発見以前は、「日本書紀」の記す大彦命は~いや雄略天皇ですら~架空の人物とすら考えられていたのですから、地方の古墳にいかに重要な史料が眠っているか、その可能性を知らしめる大発見でした。と同時に当然、これまた架空の人物扱いされる父・孝元天皇の実在性もぱっと明かりを灯されるように自動的に高まるわけですが、そこに言い及ぶ記事はなかなか見当たりません。銘文の発見

    • 御墓山古墳と大彦命

       三重県伊賀市にある御墓山古墳は墳丘長188mの前方後円墳で、その規模は大和・河内以外の古墳の中では上位に位置します。類似した形式をもつ銚子山/佐紀陵山/五色塚/摩湯山/松岳山/膳所茶臼山/御墓山/浅間山古墳の中では最も築造時期の新しい古墳ですが、地元に伝えられるところによると8代孝元天皇の皇子の大彦命の墓とされます。大彦命は崇神天皇の派遣した四道将軍のうち、北陸に派遣された人物で、崇神天皇から見て叔父にあたります。  稲荷山古墳(埼玉県)出土の鉄剣の主である乎獲居の8代前の

      • 膳所茶臼山古墳と彦坐王

         膳所茶臼山古墳(大津市)は、天智天皇陵の背後を流れる琵琶湖疏水が長等山を貫流した先に開ける湖南低地の、湖岸約1.2kmに位置する前方後円墳です。墳丘長は佐紀類似墳の中では最小ながら、滋賀県内では第3位の規模です(122m)。伝承される被葬者の一人である彦坐王は、9代開化天皇の皇子で10代崇神天皇の弟、そして丹波道主命(銚子山古墳被葬者と仮定)の父、つまり日葉酢媛(佐紀陵山古墳被葬者と仮定)の祖父にあたります。今回の佐紀陵山/銚子山をはじめとする類似墳の被葬者としてはすんなり

        • 松岳山立石の孔の意味 その2

           直立させた2枚の立石にたるみをもたせた縄を通す方法には、2つの方法が考えられます。現存する立石の角度で、立石の外から内へ縄を通せば、縄はほぼ石棺上面に接する形となります。縄がピンと張った状態で石棺に水平に接すれば2枚の角度は設計どおりとなり、縄が傾いていれば板の角度がずれているという目処となります(図1)。ただし、縄が朽ちて切れたあとに板が傾き、造営当時の角度は保たれていないかもしれません。  もう一つの方法として、立石の内側から外側へ向けて縄を通し、板の天から相互の板へ縄

        稲荷山古墳出土鉄剣 その1

          松岳山立石の孔の意味 その1

           船氏王後墓誌には松岳山古墳周辺から見つかったものであるとの伝承があり、その出土地を探す江戸時代の調査のなかで、松岳山に立石が2枚存在することが確認されていました。しかし石棺についての記録は残っていないため、当時はまだ石棺は積石に埋もれていたと思われます。その後なんらかの人の手が加わって石棺が露出し、明治時代初頭の堺県令税所篤による"乱掘"により副葬品が取り出され、1922年には後円部のみが史跡指定、ようやく1954年になって前方後円墳であることが確認されたという経緯をたどり

          松岳山立石の孔の意味 その1

          松岳山古墳と多氏

           松岳山古墳(柏原市)は、平城京と難波宮を結んだ行幸路、龍田古道沿いにあります。「万葉集」の和歌にも詠まれた風光明媚な山間の道で、その"古道めぐりマップ"を見ると、ぜひ一度踏破してみたいという意欲にかられます。松岳山古墳はマップに描かれた中では最も古い史跡で、官道が開かれる250年ほど前に築かれた前方後円墳です。下図中の古墳北側の山岳は生駒山地の南端にあたり、古道を東側へ抜けると斑鳩に到ります。大和川の北側に沿い、川を渡って南側へ移り、また北側へとうねるように行幸路が通ってい

          松岳山古墳と多氏

          摩湯山古墳の主は国造か、県主か

           まず最初に頭に入れておく必要があるのは、葺石が太陽光を反射し燦然と光り輝く五色塚古墳も、野生林があらゆる方向へ獰猛に群生し、ブヨの発生と悪臭で近隣から苦情が上がるその他諸々の古墳も、造営当初は同じ威容を誇っていたということです。摩湯山古墳は泉南と泉北の境目あたり、海岸から5.5km(標高50m)とやや内陸部に立地する前方後円墳です。一方の五色塚古墳は海岸から300m(標高30m)で、臨海部の古墳との印象を強く与えます。  ただし神武東征からさほど年月が経っていない古墳時代前

          摩湯山古墳の主は国造か、県主か

          五色塚古墳の復元事業

           佐紀陵山古墳と同規格の古墳のうち、飛車角ともいうべき規模の二古墳、五色塚古墳(墳丘長194m)と摩湯山古墳(墳丘長200m)に何らかの関連がないか調べてみます。前回の浅間山古墳同様、崇神天皇の時代に軸を置くと、四道将軍のうち山陽道に派遣された吉備津彦命の墓が五色塚古墳にあたるのではないか、という考えがまず浮かびます。吉備津彦命は崇神天皇の祖父にあたる孝元天皇(ならびに倭迹迹日百襲姫命)の兄弟であり、年齢的には過酷すぎる任務のように思えますが、7〜9代天皇に若くして皇位継承、

          五色塚古墳の復元事業

          銚子山・佐紀陵山・浅間山古墳の被葬者

           日葉酢媛を宮内庁の治定どおり佐紀陵山古墳の被葬者と仮定すると、その父は四道将軍の1人として丹波に派遣された丹波道主命であり、銚子山古墳のある丹後半島との関連が浮かび上がります(前回の孝霊天皇/建田勢命説より2,30年、登場人物は新しくなります)。丹波道主命は9代開化天皇の孫ですが、父は10代崇神天皇の兄弟の子、つまりここから傍系へ移りますが、娘の日葉酢媛がいとこの垂仁天皇の妃となったことから再び本家と結びつき、さらに垂仁天皇との間の子はのち景行天皇となるので、日葉酢媛を正妃

          銚子山・佐紀陵山・浅間山古墳の被葬者

          真の孝霊天皇陵はどこか

           孝霊天皇陵とされる片丘馬坂陵の形式は、宮内庁によると"山形"ということですが、これは円墳のようなものなのか、googlemap上のマークと地理院地図を照らし合わせてみました。ストリートビューを見ると標高30mほどの道路面から丘の頂上50mへ到るまで、けっこうな急斜面となっています。等高線がきれいな形状を描いているわけでもなく、むしろ北東に位置する丘の方が墳墓に向いているのではないかというくらいいびつな地形で、ごく自然な地形を利用した墳墓ではないかと思われます。一方で、海部氏

          真の孝霊天皇陵はどこか

          建田勢命、建諸隅命と日本海側の前方後円墳

           「竪系図」中の饒速日命から9世紀半ばの32代海部直田雄まで各世1名記された直系子孫を、極めて単純に一世代20年で均等割すると、始祖の饒速日命は220年ごろとなり、神武東征を3世紀末とする説とさほど遠くありません。しかし、分布が密な時期と疎な時期の差が極端です。これについては、海部氏、尾張氏双方の祖先が入り交じって記載されているのではないかという可能性以外にも、2,3人の人物が同時に籠神社に奉仕する体制をとっていたためではないかという考えることもできます。8世紀半ば以前には、

          建田勢命、建諸隅命と日本海側の前方後円墳

          彌彦神社に伝わる尾張氏の系統

           石見国の物部神社に伝わるところでは、大和を平定して即位した神武天皇は、地方に勢力を拡大するため宇摩志麻治命と天香語山命を派遣、播磨・丹波を経て石見国に入った宇摩志麻治命は、そこで一生を終えました。彌彦神社(新潟県)の伝承によると、天香語山命は尾張の基礎をつくったのち越後へ赴き、地元の人々に漁業や製塩、酒造、稲作、畑作などの技術を伝え、死後は彌彦山に祀られ伊夜比古神と称されました。  子の天村雲命は、父である天香語山命とともに饒速日命の東征に従って大和にやってきたということ

          彌彦神社に伝わる尾張氏の系統

          宇摩志麻治命と彦湯支命

           いわゆる"空白の4世紀"に,海部家で13人ないし14人の宮司が配されたとすると,その平均在職期間は7年程度。天皇家のような権力闘争があったとは思われない神社で,このような頻繁な交代はあったのでしょうか。仮に最速1世代15年で子へ代替わりするとしても,100年につき生まれる直系子孫は約7人が限界であり,約200年の期間が必要となります。この7人にプラスされた6人は,あまり遠くない傍系,兄弟であったと考えるしかありません。  たとえば笠水彦命が思いのほか若くして亡くなった場合,

          宇摩志麻治命と彦湯支命

          笠水彦命と笠水神社

           下の物部氏の系図は末端の守屋までたどることのできる,直系とされる者のみを表示したもので,たとえば伊香色雄命には7人の子があり,その一人の物部十千根には5人の子が…と傍系をとたどれば,ねずみ算並みに子孫が増え,それこそ現代の日本は物部氏の子孫であふれているような様相であることは言うまでもありません。それは海部氏を含むどの氏族も同様です。前回の版では,(d)笠水彦命以降数世代欠落しているのではないかという表記をしましたが,饒速日命直系の82代目宮司が現存すると考える以上,途中で

          笠水彦命と笠水神社

          饒速日命から倭宿禰命まで

           律令国家において物部氏は,刑の執行,囚人の監視など軍事・警察的任務に配属されていました。その職域は律令制成立以前にさかのぼり,大和王権の祭祀に関わる物資の生産を本来の職務とする一方で,様々な職種の集団が存在し,なかには武器の生産に携わる集団もありました。巨大な鉄剣と銅鏡が出土した富雄丸山古墳の被葬者が物部氏の系統ではないかという推論も,被葬者が皇族ではないこと,技術と原材料を掌握していた豪族であることを考え合わせれば,容易に浮かびます。  被葬者の体躯を反映して埋葬品が巨大

          饒速日命から倭宿禰命まで

          海部氏系図

           天橋立の北側の端に籠神社があります。何の変哲もない鳥居に見えますが,この神社が持つ歴史的背景は並大抵ではありません。ここには饒速日命の直系の子孫が,82代目の宮司として現に住まわれています。また,饒速日命が籠神社の海の奥宮である冠島に降り立ったとき,たずさえていた十種の神宝のうち,沖津鏡,辺津鏡が現在も収められています。これは出土品でなく伝世品としては日本最古のものとされます。  祖である饒速日命(彦火明命)は,いち早く九州から東征し,神武東征時にはすでに丹後を含む畿内を

          海部氏系図