松岳山立石の孔の意味 その2

 直立させた2枚の立石にたるみをもたせた縄を通す方法には、2つの方法が考えられます。現存する立石の角度で、立石の外から内へ縄を通せば、縄はほぼ石棺上面に接する形となります。縄がピンと張った状態で石棺に水平に接すれば2枚の角度は設計どおりとなり、縄が傾いていれば板の角度がずれているという目処となります(図1)。ただし、縄が朽ちて切れたあとに板が傾き、造営当時の角度は保たれていないかもしれません。
 もう一つの方法として、立石の内側から外側へ向けて縄を通し、板の天から相互の板へ縄を渡す形も考えられます(図2)。しかし、くぼみ領域がかなり下方に位置するため、前者の通し方のほうが有力かと思われます。

(イメージ図であり、縄の太さ・たるみは実際と異なります)

 立石の厚さは南が15cm、北が11cmであり、巨石というほどの板ではありません。内側から孔を通し外側に出た縄をその場で止め具で固定すれば作業上は事足りますが、孔を通した縄をわざわざ下方の左右に設けたくぼみ領域へ渡し、非貫通のくぼみで杭を固定した痕跡がみられることから、竣工後も縄を張った形で残存させるという意図があったと思われます。縄には装飾を施してしめ縄のような形で残したのではないでしょうか。縄の長さについては、最初から精密に計算されたものではなく、止め杭を右にねじれば縄を巻き取って短く、左にねじれば長くなるといった調節機構が、小さい立石についていた可能性もあります。金庫のダイヤルがカチっと留まるかのように、2つのくぼみで止め杭の両端に設けた突起を受け止め、地面と立石に木型を当てて角度を確認しながら傾きを微調整した、そのような作業の様子が思い浮かびます。

 立石の角度が造営当時のままであるとすると、船の竪板を象徴したものではないかという先述の論文「松岳山古墳の立石」(中西靖人)の説が有力になってきます。縄文時代以来、舟は木をくりぬいただけの丸木舟でしたが、弥生時代末から古墳時代にかけて、丸木舟の上に板を立てて囲みをつくり波が入らないようにした船がつくられるようになりました。丸木舟と、後の時代につくられる船全体を板でつないだ構造船の中間の形であるので、準構造船といいます。前部と後部には竪板という板が立てられ、側面の舷側板は前後が竪板にはさまれ、船の下部の丸木舟と舷側板の間は桜の樹皮によって結合されていました。この構造の竪板の部分のみを石室内で再現したということです。
 当時は全長10mで大型船、6mで小型船という扱いだったで、松岳山古墳の石棺と立石で表現された船はミニスケールというわけではなく、ごく標準的な中型船の姿を原寸大で表したものといえます。当時の船の復元を見ると、竪板は波切板とも言われるように、進行方向の波を切るのが役目なので、やはり前方の竪板の方が若干大きくつくられています。従って、南側が船の前方を示すと思われます。先述の論文によると、河内・和泉で出土した4〜5世紀の舟型埴輪の竪板の傾斜は、この立石の傾斜に近いものであるということです。
 では被葬者は多氏以外のなにがし、水運に力を持っていた氏族なのか、という問題はひとまず置いておき、類例として挙げられる佐紀陵山古墳について考えてみます。江戸時代の調査では後円部の頂上に棺を納めるための石室が確認され、1916年には盗掘により銅鏡や多様な石製品、埴輪が出土しました(すべて埋め戻し)。石室の様子は「竪穴式石室の両端の壁の位置に板状の石材が立てられ、そこには小孔が穿たれていると」と伝えられています。これが松岳山古墳と同じく竪板の意味を含むとすると、日葉酢媛を水運の象徴として葬る必要はどこに、という疑問がまず浮かびます。

 その前に、有孔立石の類例として松岳山古墳と佐紀陵山古墳のみがクローズアップされることが多い点に対して、疑問の目を向けなければなりません。今回たどってきた類似墳の銚子山古墳、五色塚古墳、摩湯山古墳は、いずれも埋葬施設は未調査なのです。五色塚古墳の場合、復元整備の末期に神戸市は、後円部に存在するであろう埋葬施設の発掘調査を実施したい旨文化庁に願い出たものの、「神戸市にはその能力なし」として許可されなかったということです。当時の文化庁は市の復元整備事業を破壊行為であると見なしており、両者の間に軋轢があったようです(「史跡五色塚古墳小壺古墳発掘調査・復元整備報告書」より)。第10章の対談では、情熱と予算の狭間で苦闘する整備事業の経緯が語られています。
 「それで一番頭にくるのは、宮内庁が御陵墓の尊厳を保つためといって、木を生やしてるわけ。台風なんかで風倒木が出て、そのために葺石や埴輪をもってあがるわけ。それは古墳にとって、一番悪いことです。一般の人は、古墳とは木の茂った小山だと思ってるわけです。堀を巡らした森の山やと。ところが我々発掘してると、元は全然そういうものではない。葺石があって、埴輪を巡らして、という本当の古墳の姿を見せたいと思ったわけ。そこで、いろいろトラブルを抱えている五色塚が出てくる。しかも相手が神戸市なら、何とか補助裏を持ってもらえそうな、ということがある。五色塚を、なんとかつくられた当時の形に復元したい、という気持ちがあって。それで、武藤先生に届けたという、私の書いた絵ができるわけです。」と当時の整備事業の中心人物、坪井清足氏(元興寺文化財研究所所長)は語ります。

 国は遺構を自然のまま放置することが保全であると考える傾向が強く、上記報告書でも「現状変更は不可、"凍結保存"が望ましい」とする、そのかたくなな姿勢がうかがえます。しかし、草木の侵食や浸水といった自然の力こそが遺構破壊の主犯ではないでしょうか。いかなる教委や文化財課の発掘調査も、それが税所篤のような乱掘でない限り、自然の猛威・破壊力を上回ることはありません。それでは、銚子山古墳、五色塚古墳、摩湯山古墳にも同様の有孔立石が存在するのではないかという可能性を胸に秘めたうえで、残りの類似墳の考察を進めてみたいと思います。

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