真の孝霊天皇陵はどこか

 孝霊天皇陵とされる片丘馬坂陵の形式は、宮内庁によると"山形"ということですが、これは円墳のようなものなのか、googlemap上のマークと地理院地図を照らし合わせてみました。ストリートビューを見ると標高30mほどの道路面から丘の頂上50mへ到るまで、けっこうな急斜面となっています。等高線がきれいな形状を描いているわけでもなく、むしろ北東に位置する丘の方が墳墓に向いているのではないかというくらいいびつな地形で、ごく自然な地形を利用した墳墓ではないかと思われます。一方で、海部氏の先祖が丹波国を統治した初期のころの古墳ではないかと前回述べた日本海側の古墳は、いずれも立派な前方後円墳です。

 「日本書紀」によると、7代孝霊天皇は孝安天皇の崩御翌年に即位し、都を黒田廬戸宮に移しました(唐古・鍵遺跡の西方約1kmのあたり)。妃とした倭国香媛の間には倭迹迹日百襲姫が生まれました。いうまでもなくこれは、邪馬台国大和説により箸墓古墳の被葬者=卑弥呼と比定される巫女です。孝霊天皇について伝わるのは系譜のみで、その事績はよくわかっていません。ここで2つの矛盾に突き当たります。銚子山古墳の築造時期は箸墓古墳の100年近く後であること、天皇の娘が、突如出現した巨大な前方後円墳の最初の被葬者である一方で、その父の孝霊天皇の陵墓があまりに貧弱な点です。そこで、欠史八代とよばれる天皇の陵墓を地理院地図とストリートビューで比べてみました。

6代孝安天皇:玉手丘上陵。円丘。道路から急な崖がそびえ立ちます。幕末に大きく修復されたということで、規模は相当盛られている可能性があります。
5代孝昭天皇:掖上博多山上陵。山形。等高線は1本のみで、もやっとした地形です。周囲は石垣に囲まれ、拝礼所すらうかがえません。
4代懿徳天皇:畝傍山南繊沙渓上陵。山形。橿原神宮の裏手で、上図の「皇」の字のあたりに位置します。畝傍山の裾野の自然地形を利用してつくられたものと思われます。
3代安寧天皇:畝傍山西南御陰井上陵。山形。ようやくストリートビューで拝礼所を見ることができました。懿徳天皇稜より標高がさらに10mほど低く、ほぼ平坦な土地です。
2代綏靖天皇:桃花鳥田丘上陵。円丘。神武天皇陵と並び地形は最も平坦で、等高線はみられません。幕末に神武天皇陵との比定の入れ替えが行われました。最近行われた調査によると、古墳であること自体は確かなようです。

 ざっと見た共通点としては、20mほどの盛り上がった自然地形の楕円の丘を利用したもので、弥生後期の墳丘墓と大差ない規模ではないかと思われます。仮に神武東征を2世紀末にずらせば、時代は弥生なので簡素な墳丘墓である説明はつきますが、孝霊天皇の治世は箸墓古墳の築造時期よりも古くはなりません。さらに2世紀前半までずらしても、簡素きわまる孝霊天皇陵から箸墓古墳への劇的な巨大化が不自然であることに変わりはありません。この点については、倭迹迹日百襲姫は孝霊天皇が老齢にさしかかってからできた子であり、かつ倭迹迹日百襲姫が霊験の円熟した老女のころ、年若き崇神天皇のもとで強力な霊力を発揮し祭祀の長として盛大に葬られた、と考えると、両古墳の築造時期に大幅な年月の乖離を設けることができます。孝霊天皇以降の陵墓は次のように変化します。
8代孝元天皇陵:劔池嶋上陵。前方後円墳。三方を池に囲まれており、ストリートビューで見た姿も等高線の形状も古墳らしくなってきました。
9代開化天皇:春日率川坂上陵。前方後円墳。寺院の敷地内にあるのか、ストリートビューでは全く姿を見ることができません。細長い楕円の等高線が1本のみ描画されています。
 そして10代崇神天皇陵から、はっきりと等高線で識別することのできる雄大な前方後円墳が陵墓として初めて登場します。娘の倭迹迹日百襲姫の箸墓古墳、そして同時代人である建田勢命の銚子山古墳(仮比定)との間であまりに不釣り合いな孝霊天皇陵は比定を見誤っている、という前提のうえで、奈良盆地北部に分布する大型前方後円墳の中から、新たな候補地を探してみました。

 4世紀半ばから5世紀にかけて築造された大型前方後円墳が集中する佐紀古墳群のうち、佐紀陵山古墳は全長207mと銚子山古墳と同規模、古墳の形状も銚子山古墳と同規格です。同じ規格の古墳は膳所茶臼山古墳(大津市)、摩湯山古墳(岸和田市)、松岳山古墳(柏原市)、御墓山古墳(伊賀市)、五色塚古墳(神戸市)、浅間山古墳(高崎市)と広範囲に分布しています。同規格の古墳の広がりは、王とそれに従属する地方豪族の勢力分布を示します。しかし宮内庁によると被葬者は垂仁天皇皇后の日葉酢媛とされています。女性が被葬者であるとする根拠は大正時代に盗掘された際の副葬品のリストで、女性が身につけて埋葬されることの多い石製腕飾りが含まれている一方、武具類はみられませんでした。

日葉酢媛から見て成務天皇は祖父に当たる

 やはり200mをこえる規模の面から見ても、佐紀陵山古墳は天皇の墓ではないでしょうか。もう一つ別の候補地として纏向をあげておきます。7〜9代天皇の時代には都の立地が南北へ大きく右往左往しますが、孝霊天皇のとき黒田の都に近い纒向に陵墓が造営された、ホケノ山古墳・東田大塚古墳・勝山古墳といった被葬者不明の古墳のいずれかが孝霊天皇陵に当たる、政治の中心が柳本へ移った10代崇神天皇の下で祭祀の長となった倭迹迹日百襲姫は父が眠る纒向に葬られた、と考えるとどうでしょう(ただし年表の西暦年を100年以上前へずらさなければなりません)。
 今回の日本海側の前方後円墳と孝霊天皇との結び合わせに当たっては、一方の前提が他方の前提とぶつかり合い、考察は迷走状態といったところです。丹後半島の古墳の比定についても、海部氏の建諸隅命以降の世代について調べていくうちに考えが変わってくるかもしれません。欠史八代については、臣下として仕えた物部・海部両氏の饒速日命から数えて3〜8代の子孫の墓を確定することで、その実像が見えてくる可能性があります。その意味からも、地方を含む、陵墓指定を受けていない古墳の埋葬施設の調査が今後進むことを期待したいところです。

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