建田勢命、建諸隅命と日本海側の前方後円墳

 「竪系図」中の饒速日命から9世紀半ばの32代海部直田雄まで各世1名記された直系子孫を、極めて単純に一世代20年で均等割すると、始祖の饒速日命は220年ごろとなり、神武東征を3世紀末とする説とさほど遠くありません。しかし、分布が密な時期と疎な時期の差が極端です。これについては、海部氏、尾張氏双方の祖先が入り交じって記載されているのではないかという可能性以外にも、2,3人の人物が同時に籠神社に奉仕する体制をとっていたためではないかという考えることもできます。8世紀半ば以前には、祭祀を円滑に執り行うため、補佐的な宮司を古くから神社に奉仕してきた氏族の中から任命していたと思われます。となると、海部氏系図は直系血族の連なりではなく、籠神社に奉仕した宮司の一覧ということになります。

 饒速日命から見て6代目の建田勢命は、大和で孝霊天皇に仕えていたとき丹波の宰に任じられ、現在の京丹後市久美浜町海士に府を置きました。主な任務は、祭祀に使う赤色顔料の原料となる水銀を、丹波から大和に収納することでした。この地には建田勢命の館跡があり、近くの矢田神社では建田勢命とその子建諸隅命を祀っています。
 地名の「海士(あま)」が、海部氏の由来となったのは想像に難くないところです。一族が海部の姓を授けられたのはこの建田勢命の代であり、籠神社が始まったのも同時期であるとする説も見受けられます。つまり、現在の82代目宮司の前に籠神社の宮司が81人存在したというわけではなく、ある時期に創建された籠神社の宮司の祖先をたどっていくと、数々の神格化された人物に行き当たる、という流れになります。
 建田勢命はその後、山城久世水主村(京都府城陽市久世)に移って山背直の祖となり、再度大和に戻ったあとは、葛木の高田姫をめとり建諸隅命が生まれました。地名の「水主」は、水軍を率いる将の意味で、尾張にも同じ地名がみられます。笠水彦命の項でも記したように、海部氏は元来、水に関連の深い一族のようで、城陽市にある水主神社では古くから朝廷の雨乞いの儀式が行われていたと伝えられます。

 建田勢命の跡は息子の建諸隅命が継ぎ、娘の大倭久邇阿禮媛は孝霊天皇の妃となりました。さらに建諸隅命の妹の大海姫命は崇神天皇の妃となりました。このように、建田勢・建諸隅父子は朝廷の中枢に深く食い込んでいました。建田勢命が丹波への赴任を命じられたのは地方への左遷ということではなく、丹波が鉱産・水産資源の産地として重要視されていたためです。
 建諸隅命は現在の京丹後市丹後町竹野で政治を行いました。この竹野の地名は建諸隅命の別名を由来としています。竹野を治めた後は大和に戻り、三輪山地域を開発しました。父子2代、これほど重用された人物であれば規模の大きな古墳に葬られたものと考えられます。建田勢命が「丹後王国初代王」とまでよばれることと、その代に籠神社が創建されたという話をもとに、丹後半島の三大古墳を比定してみました。

(蛭子山古墳は籠神社の南西に位置)

 規模(墳丘長)は銚子山古墳(201m)、神明山古墳(190m)、蛭子山古墳(145m)の順となります。築造時期は蛭子山古墳、銚子山古墳、神明山古墳の順で、4世紀半ばから5世紀初めにわたります。建田勢命は孝霊天皇に仕えたということなので、これは神武東征を3世紀末とする年表の紀年にかなり近くなってきます。まず日本海側で最大の古墳である銚子山古墳を建諸隅命陵、近くに竹野神社がある神明山古墳を建諸隅命陵と比定しました。前者は規模、後者は地名を手がかりとするのみで、いずれも埋葬施設は未調査であるため証左はありません。
 こうした地方の古墳が、陵墓指定を受けていないにもかかわらず未発掘である背景はよくわかりません。奈良県の大学による電磁探査は実施されたようですが、ひとまずそれで終了の模様。土地所有権の問題か、あるいは発掘するまでの意義が見いだせないといった理由でしょうか。しかし、埼玉県の稲荷山古墳の例にもみられるように、地方の古墳が天皇の治世時期を実証することがあります。"空白の4世紀"の一端を解き明かす何らかの銘の刻まれた遺物が発見されれば、全部過疎自治体である京丹後市にとっては強力な観光振興策となるでしょう。

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