五色塚古墳の復元事業

 佐紀陵山古墳と同規格の古墳のうち、飛車角ともいうべき規模の二古墳、五色塚古墳(墳丘長194m)と摩湯山古墳(墳丘長200m)に何らかの関連がないか調べてみます。前回の浅間山古墳同様、崇神天皇の時代に軸を置くと、四道将軍のうち山陽道に派遣された吉備津彦命の墓が五色塚古墳にあたるのではないか、という考えがまず浮かびます。吉備津彦命は崇神天皇の祖父にあたる孝元天皇(ならびに倭迹迹日百襲姫命)の兄弟であり、年齢的には過酷すぎる任務のように思えますが、7〜9代天皇に若くして皇位継承、または早逝した代があったと考えれば、祖父と孫の年齢差が30年ほどであれば将軍任命もありうる話です(兄弟間に大きな年齢差があった可能性も)。欠史八代に非常に短命な治世が続いたとすれば、これは崇神年間=4世紀半ば説の補強になります。しかし、倭迹迹日百襲姫命が俎上にのぼるたびに箸墓古墳=3世紀後半という築造時期が考証の足かせとなるのですが…この件についてはまた改めてじっくり述べたいと思います。

 五色塚古墳の立地は摂津と播磨の境目あたりの播磨側と思われ、「日本書紀」には五色塚古墳について「播磨の赤石に山陵を建てた。船を編成し、淡路島の石を運んでつくった」とあり、その立地を播磨国としています。一方、「風土記」には播磨国の長官を7世紀の終わりに「吉備大宰」と呼んでいたとの記述もあります。

五色塚古墳の後円部から

 五色塚の墳丘は第二次世界大戦中の資源・食料不足のなか、樹木伐採や耕作のために利用されました。戦後、古墳の荒廃を憂えた文化財保護委員会は、これを「築造当時の姿に戻し、野外博物館とする」ことを目標に掲げ、史料や発掘調査をもとに復元計画を立てました。江戸時代の地誌「播磨鑑」によると、神社の社殿を改築するため墳丘の大木を伐採したところ、大穴が開き石棺が顔を見せました。後円部の頂上では「結晶片岩の板状の石材」の破片がみつかり、その大きさから石榔の蓋または壁面の破片とみられることから、竪穴式石郭の構造が推測されました。
 古くから「偽陵」とされ陵墓と扱われなかったため、研究者により多くの記録が残されることとなりましたが、その半面、破壊の憂き目に遭うことも多く、特に"戦時には史跡が破壊される"の例にもれず、松の根を掘り起こして松根油を採取したり、葺石をはがして棚田状に畑が造成されるなどして、その姿は荒んでいきました。
 着工から10年後の1975年に復元事業は完了します。出土した埴輪の一部は接合されたものの、その後整理作業は中断、濠にある仮設倉庫に破片や記録が放置されました。そして20年が経過した1995年、阪神・淡路大震災で五色塚古墳は陥没や崩壊の被害を受け、倉庫内に積み上げられていた埴輪も倒壊しました。墳丘は補助金を受けて復旧しましたが、倉庫内の埴輪はそのまま放置されさらなる時が過ぎていきます(「史跡五色塚古墳小壺古墳発掘調査・復元整備報告書」より)。こうした扱いは、大量の埴輪レプリカを製作することのほうに労力が向けられた(予算がつきた?)結果ではないかと推測しますが、実際のところはどうなのでしょう。

 肝心の発掘は周辺の埴輪の調査で終了してしまい、銚子山古墳同様、埋葬施設は手つかずのままです。こうした、陵墓や陵墓参考地でないにもかかわらず、埋葬施設の調査が行われない地方の古墳が多く見受けられるのはなぜでしょうか。一般市民の墓であっても、納骨前に業者が清掃してくれたり、納骨後はコーキングしたり手入れをするものです。少なくとも遺骨が水浸しになることだけは避けたいと思います。被葬者がわからないから手を付けないという理由であるなら堂々巡りであり、では被葬者がほとんど治定されている陵墓も同様に手つかずであるのは一体なぜかということになります。現代は火葬であり、一族が次々と同じ空間に納骨されるため清掃が必要となる、という事情の違いはありますが、それでも石室内が水浸しになろうが木の根が突き刺さろうが知らぬ顔という姿勢は、先祖の慰霊にはあたりません。
 行政・学会にとって埋葬施設の発掘はそれほど忌避されるべき行為なのか、最近は、否、ひょっとして被葬者に関心がないだけなのではないか? と思い始めています。こうした被葬者への無関心は、富雄丸山古墳で出土した蛇行剣と盾形銅鏡が美術的・技術的観点から語られるばかりで、なかなか被葬者に具体的な議論がおよばない様子を見ても実感されます。関心がないからこそ、開棺するまでもないとして調査が止まってしまうのでしょう。
 ここまで銚子山古墳、五色塚古墳、摩湯山古墳のいずれにおいても、"国史跡であるため立ち入り調査ができない"旨の記述をみかけました。そのたびに頭の中を?マークがかけめぐるのですが、国史跡の指定とは、国があらかじめ価値を示すことで遺跡を道路や住宅の開発から守るとともに、事業者側は開発計画を立てやすくなり、保存と開発の両立も図ることができるというのが趣旨ではないかと思われます。しかしどうもそればかりではない、国の史跡だから自治体や学会の立ち入りは受け付けないという線引きのようにも見えます。史跡としての価値を確定するには発掘が必要なのに、文化財保護法を盾に立ち入りを拒むというのは姿勢としては本末転倒であり、もっと格上の国宝級の文化財が埋もれているかもしれない可能性を自ら閉ざすことになります。富雄丸山古墳の埋葬施設で出土した蛇行剣と盾形銅鏡〜おそらく国宝に指定されるであろうこれらの金属器は、古墳が史跡指定を受けていなかったからこそ発見されたものではないでしょうか。

 話が飛びましたが、吉備津彦命の墓として最も有力視されているのは、中山茶臼山古墳(岡山市)です。古くから神の山として崇められていた「吉備の中山」の山頂付近にある前方後円墳(120m)で、ふもとの吉備津彦神社は吉備津彦命を祭神としています。築造時期は定かでありませんが、崇神天皇陵とされる行燈山古墳と比べるとほぼ2分の1スケールの相似形を示し、これは宮内庁の治定どおり吉備津彦命の墓と考えてもなんら不自然ではありません。ならば同様に、周辺の伝承や規格をもってして"有力視"されてしかるべき人物が、先述の類似墳においても絞られてくるはずです。では五色塚古墳の被葬者は誰なのでしょう。摩湯山古墳との関連で次回考えてみたいと思います。

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