宇摩志麻治命と彦湯支命

 いわゆる"空白の4世紀"に,海部家で13人ないし14人の宮司が配されたとすると,その平均在職期間は7年程度。天皇家のような権力闘争があったとは思われない神社で,このような頻繁な交代はあったのでしょうか。仮に最速1世代15年で子へ代替わりするとしても,100年につき生まれる直系子孫は約7人が限界であり,約200年の期間が必要となります。この7人にプラスされた6人は,あまり遠くない傍系,兄弟であったと考えるしかありません。
 たとえば笠水彦命が思いのほか若くして亡くなった場合,兄弟や叔父が跡を継いだと…この時点で倭宿禰命からの直系は途絶えてしまうのですが,1世代さかのぼったうえで改めて繰り下がるという後継の遡上が,4世紀のうち8度行われた末,これを直系の系図と称して,のちの時代にまとめられたのではないでしょうか。本妻以外に複数の妾を持つのが当たり前,しかも平均寿命の短い時代においては,傍系への継承は頻繁に行われました。

 天皇家においても13代成務天皇に至るまで,すべて直系の子への継承が行われたとされています。両家の直系の原則を崩さずに考えるとどのような図になるか,4世紀の13人の天皇の治世をほぼ倍の200年間に配置し直してみました。海部氏は410年ごろ宮司を継承したと考えられる建振熊宿彌を下辺として固定,これを基準に左端の西暦年の列のみを上方へ拡大した形です。すると神武天皇と倭宿禰命は2世紀から3世紀にかけての人物となります。
 神武は卑弥呼の没後に九州から出てきた人物という考えは,個人的には譲れないところですが,海部氏を直系で配するとどういった景色が見えてくるか試しにつくってみました。神武が九州を出たのは倭国大乱のころ,九州で卑弥呼が君臨したころの大和は孝昭・孝安天皇の治世となります。今話題の行燈山古墳(崇神天皇陵)の築造時期を4世紀前半と設定する向きには,崇神天皇がちょうどこの時期にあてはまり,都合のよい紀年ということになります。一方,富雄丸山古墳の築造時期は大水口宿禰とずれてしまいます。

 ここで物部氏側に目を移してみます。笠水彦命と同世代と思われる彦湯支命は,綏靖天皇の代に宿禰(足尼)となり,後に申食国政大夫(大連)に任じられました。まず阿野姫を妻として一男をもうけ,さらに出雲色多利姫を妾として一男、淡海川枯姫を妾として一男をもうけました。「先代旧事本紀」ではこの淡海川枯姫との間の子が出石心大臣命で,さらに孫が大水口・大矢口兄弟であるとしています。大水口・大矢口という形の名前の対応は、古代の同母兄弟の名づけ方にみられる傾向とのことです。
 意冨禰命は,物部氏と同じく饒速日命を祖とする穂積氏の系図に登場し,彦湯支命と出石心大臣命の間に位置づけられている人物ですが,除外せずひとまず記載しておきます。出石心大臣命が5代孝昭天皇に仕えたことを考えると,彦湯支命との間の世代の空白を埋めるためにも意冨禰命の存在は必要に思えますが,2~4代天皇が比較的短命であったと仮定すると,彦湯支命が2~4代の3世代にわたる天皇に仕え,意冨禰命の存在ぬきに出石心大臣命に直接引き継いだと考えても不自然ではありません。人物の表記・出自は出典によって食い違い,たとえば宇摩志麻治命(「日本書紀」では可美真手命と表記)は,「古事記」では物部連・穂積氏・婇臣の祖と扱われていますが,「先代旧事本紀」では,大水口宿禰がこれらの祖とされています。一族に連の姓が与えられたのはもっとあと,十市根の代からであるとする説もあります。また,大水口・大矢口ともに出石心大臣命から見て傍系であり,出石心大臣命の直系の子孫は大綜杵宿禰へつながったとする出典もあります。さらに諸説乱れ飛び,大水口宿禰から見て又甥であるはずの伊香色雄命が,大水口宿禰の父であるという説まであります。こうなると考古学上の発見による裏付けを待つしかありませんが,今は三氏の系図を並べ,そこから整合性のとれる構図が見えてこないか試しているところです。

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