摩湯山古墳の主は国造か、県主か

 まず最初に頭に入れておく必要があるのは、葺石が太陽光を反射し燦然と光り輝く五色塚古墳も、野生林があらゆる方向へ獰猛に群生し、ブヨの発生と悪臭で近隣から苦情が上がるその他諸々の古墳も、造営当初は同じ威容を誇っていたということです。摩湯山古墳は泉南と泉北の境目あたり、海岸から5.5km(標高50m)とやや内陸部に立地する前方後円墳です。一方の五色塚古墳は海岸から300m(標高30m)で、臨海部の古墳との印象を強く与えます。
 ただし神武東征からさほど年月が経っていない古墳時代前期においては、海岸線がずれていた可能性が大です。下の地図は大雑把にトレースしたもので地学的にはアバウトなものですが、大阪湾南部の摩湯山古墳付近では、現在より2.5kmほど海岸が内陸へ寄っていたのではないかと思われます。そこで、大阪湾を取り囲み五色塚古墳と摩湯山古墳を両端とする勢力圏を築いた氏族がいないか調べてみました。

旗印は作図の目印とした和泉市役所(地理院地図より)

 凡河内氏は神武天皇の時代、彦己曾保理命が最初の凡河内国造に任じられたことに始まり(「先代旧事本紀」)、のち河内国・摂津国・和泉国を支配することとなりました。この3国の範囲がなかなかつかみにくいのですが、現在の堺の地名の由来として、「摂津・河内・和泉の三国の国境が存在したことから平安時代に"さかい"と呼ばれるようになった」ということなので、摂津の領域は堺まで、岸和田市に位置する摩湯山古墳は和泉国と考えてよさそうです。
 地図中で堺市の位置は点線と実線が合流するあたりです。つまり河内湖の存在を考え合わせると、摂津の領域が堺まで広がっていた時期にはすでに海岸線は点線のラインまで後退していた、ゆえに凡河内氏の支配が河内国・摂津国・和泉国の三国にまたがったのは5世紀ごろ、と推定されます。「日本書紀」の雄略天皇記に凡河内氏が登場し、5世紀後半の朝廷において凡河内氏の存在感が増したと考えられる点とも符合します。その後、大河内稚子媛が宣化天皇の妃となった6世紀に全盛期を迎えますが、古墳時代を通して具体的な家系、人物名がほとんど見えてきません。
 「凡」を冠する氏はのちの律令制の「国」に相当するような広領域を支配した豪族を意味し、特に瀬戸内海沿岸に多くみられました。大阪湾岸を統治し港の管理にたずさわった凡河内氏は、外交を担当して渡来人を統率しました。その本拠は意外にも河内ではなく、摂津にありました。河内国魂神社(神戸市灘区)のあたりを元来の本拠ととらえると、最初に瀬戸内航路の要所の一つである務古水門(今の神戸港沖)をおさえ、しだいに河内・和泉国にも力をのばしていった流れが考えられます。水門という凡河内氏にとっての要所に、道標のような意味を含む有力者の墓として建造されたのが五色塚古墳ではないでしょうか。そして姉妹墳である摩湯山古墳は、凡河内氏の勢力の東縁を示す道標として、海岸線に対する角度が五色塚古墳と同じになるよう設計された、というのがここまでの推測です。

 地方は国に区分されるのみでなく、国のもとには県(あがた)が置かれていました。これは現在の県/市町村のように国全体が県に分割されるものではなく、国の領域の一部にいくつかの県が置かれる形態で、国には国造、県には県主や稲置といった官吏が置かれました。河内国・摂津国・和泉国の範囲には三島県・三野県・猪名県・志紀県・紺口県・茅渟県の6県が存在し、このうち、志紀県、紺口県、茅淳県には4〜5世紀にかけて皇族出身者が県主として派遣され、朝廷が直接開発を進めるという形態がとられたということです。そして和泉に置かれたのは茅渟県でした(「河内における県の展開」(若井敏明)による)。

 垂仁天皇記には、皇子の一人である五十瓊敷命がこの茅渟県に派遣され、高石池、茅淳池をつくったとあります。さらに「茅渟の菟砥川上宮に居して、剣一千口を製作し、その剣を石上神宮に納めた」とあり、和泉の南部にその宮があったと考えられます。摩湯山古墳の所在地もこの和泉南部に含まれます。五十瓊敷命が垂仁天皇と日葉酢媛命との間に生まれた皇子であることから、佐紀陵山古墳を日葉酢媛陵と仮定するとその類似墳である摩湯山古墳が五十瓊敷命の墓である可能性が一挙に浮上します。
 なお宮内庁は、淡輪ニサンザイ古墳(泉南郡、墳丘長173m)を五十瓊敷陵に当てていますが、築造時期は5世紀中後期ということで垂仁天皇の治世からは大きくずれています。摩湯山古墳は、大阪府の古墳時代前期、百舌鳥・古市古墳群以南の古墳としては最大規模を誇ります。規模の面から見ても、具体的な人物名が伝わってこない豪族よりも、皇子の方が被葬者としては有力ではないでしょうか。

 佐紀陵山古墳とのリンクがつながった一方で五色塚古墳とのリンクは途切れ、またも五色塚古墳は宙に浮いてしまいました。では、日葉酢媛命の5人の子どものうち、長兄である五十瓊敷命に続く残り4人の中に該当する人物はいないでしょうか。次男の大足彦尊は12代景行天皇となります。 長女の大中姫命は、兄の五十瓊敷命から神宝を司ることを命じられ「私はかよわい女人ですから」といったん固辞、のちにこれを承諾した大中姫命は、物部十千根大連に神宝を授けておさめさせたということです。これを始まりとして、物部氏が石上神宮の神宝を管理する任務を負うこととなるという興味深い逸話が残っていますが、埋葬地の手がかりはありません。次女の倭姫命は伊勢神宮を創建したことから、伊勢に陵墓参考地が治定されているとおり伊勢での埋葬が有力です。三男の稚城瓊入彦命に期待が集まりますが、皇族出身者が県主となった残り2県のうち、志紀県は堺の東側、紺口県は和泉の東側の山麓地域にあたり、神戸からはほど遠い場所です(神戸には県が設置されることはなかったようです)。稚城瓊入彦命を摂津もしくは播磨と結びつける具体的な事績も、兄弟との関係性もみつからず、ここで行き止まりとなりました。
 しかし、同規格・同規模・同時期の両古墳は何らかの東西の極を表す道標を意識して建造されたものではないかという考えは捨てきれず、東縁の摩湯山古墳=五十瓊敷命説が個人的に急浮上する中で、五色塚古墳=稚城瓊入彦命説を一つの仮説として頭の中に残しておきたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?