饒速日命から倭宿禰命まで

 律令国家において物部氏は,刑の執行,囚人の監視など軍事・警察的任務に配属されていました。その職域は律令制成立以前にさかのぼり,大和王権の祭祀に関わる物資の生産を本来の職務とする一方で,様々な職種の集団が存在し,なかには武器の生産に携わる集団もありました。巨大な鉄剣と銅鏡が出土した富雄丸山古墳の被葬者が物部氏の系統ではないかという推論も,被葬者が皇族ではないこと,技術と原材料を掌握していた豪族であることを考え合わせれば,容易に浮かびます。
 被葬者の体躯を反映して埋葬品が巨大であること(全身が映るような鏡),長髄彦の子孫である物部氏には大柄な人物が輩出されたであろうこと,築造時期が崇神天皇の代に当たることを考え合わせて,その被葬者は大水口宿禰であるという仮説は昨年述べたとおりです。
 "長い髄を持つ"という名は一種蔑称で,本来の名は登美毘古です。これは奈良盆地南東部の「鳥見」の地域を本拠地とした豪族の名で,鳥見は富雄の地名の由来となります。物部一族が10世紀前半に編纂したとされる「先代旧事本紀」では,九州から東征した饒速日命はまず河内国の生駒山北西部にたどり着き,続いて大和国の富雄川流域に移ったとされます。以後大和では饒速日命を君主とし,地元の長髄彦を首長とする国が形づくられたと考えられます。長髄彦の"スネが長い"という表現には,足もとを一目みて巨大とわかる,ひときわ大柄な異形の巨人が想像されます。そして,そうした形質は何十世代にもわたって隠れては現れながらも受け継がれるものです。
 下の系図を見て最初に疑問に上がるのが,「饒速日命がなぜ正妃である天道日女命の子の天香語山命ではなく,側室である御炊屋媛の子の(a)宇摩志麻治命を後継者に指名したかという点です。神武の大和入りの経緯は史書によって違いがあり,長髄彦を殺して神武に従ったのは「日本書紀」では饒速日命とされていますが,「先代旧事本紀」では宇摩志麻治命となっています。
 後者の場合〜神武への帰順は饒速日命の生前か死後か定かでありませんが〜宇摩志麻治命の長髄彦殺害の断を見届けた饒速日命は,自らが高天原から携えてきた神宝を,宇摩志麻治命を介して神武天皇に引き継がせることが,大和に泰平をもたらすために欠かすことのできない儀式であると考え,跡を継がせる決断を下したのかもしれません。
 一方の天道日女命の子の(b)天香語山命には,神武が熊野に上陸したとき,熊の毒気に当てられて失神した神武を,布都御魂剣を用いて救ったという逸話が伝えられています(天香語山命ではなくその子の熊野高倉下であるとする出典もあります)。
 天香語山命の子の天村雲命には5人の子があり,そのうち天忍人命は尾張氏の系統になるかと思います。(c)となりの倭宿禰命が海部氏の先祖で,東進する神武を瀬戸内海から河内へ先導した逸話で知られます。倭宿禰命は元の名を椎根津彦といい,瀬戸内海航路の交易に携わっていました。明石海峡の手前で神武の船団に出会った椎根津彦は,水先案内人として大阪湾奥へ軍団を導き,神武天皇の大和平定後は倭宿禰命の称号を与えられました(一目で故郷の大和を侵略すると見える軍団をなぜ導いたのか,これはひとまず疑問のまま留めておきます)。
 天香語山命の孫が神武の東征時に関わっていたということですから,天香語山命は宇摩志麻治命よりかなり年上の兄であったと考えられます。海部氏の後継の表記は文献によりまちまちなので,ここから先,人名表記および系統は「日本国家の成立と諸氏族(田中卓)」に準拠して進めたいと思います。

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