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三木露風『赤とんぼ』を読み解く ―「ねえや」とは誰か 母の喪失が生んだ名曲―


 日本の童謡で知っているものを尋ねたら、『赤とんぼ』と答える人は多いでしょう。三木露風作詞、山田耕筰作曲による名曲です。
この『赤とんぼ』の歌は誰もがよく知ってはいるものの、意味を解釈しようとすると分からないことがたくさんあります。特に3番の歌詞は謎です。まず、歌詞を確認してみましょう。

1番 夕焼け小焼けの赤とんぼ 負われてみたのはいつの日か
2番 山の畑の桑の実を 小籠に摘んだはまぼろしか
3番 十五でねえやは嫁に行き お里のたよりも絶えはてた
4番 夕やけ小やけの赤とんぼ とまっているよ竿の先

 まず、1番から4番のうち、一つだけ仲間はずれを選ぶとすると、どれでしょう。私は4番を選びます。4番だけが現在形で書かれているからです。1番から3番までは過去を回想しています。4番は「今」です。ところが、言葉の使い方は逆です。3番までは文語的であるのに対して、4番だけは口語的でしかも幼く感じませんか。
 これには秘密があります。「赤とんぼとまっているよ竿の先」は、三木露風が小学校の時に作った俳句をそのまま挿入しているのです。
『赤とんぼ』の歌詞は、三木露風が北海道のトラピスト修道院で教師をしていたとき、ふと窓の外に赤とんぼが飛んでいるを見て作ったと言われています。少年の頃の情景と重なったのでしょうか。そして、おぼろげな幼い頃の記憶も蘇ってきたのだろうと思います。

 問題は3番です。今の感覚では、「ねえや」は自分の姉だと思いがちです。しかし、それでは矛盾が生じます。十五で姉が嫁いだとするならば、お里である実家には自分がいることになります。なのに、便りが絶え果てるとは筋が通りません。だから姉では有り得ません。

 既に、「ねえや」が「姐や」であることに気付いている人もいるでしょう。三木露風の育った家は、龍野藩(現兵庫県たつの市)の家老を務めた名門でした。彼の生家が龍野城のすぐ目の前にあったほどです(今もあります)。当然、子守は専属の娘を雇っていました。実際に姉はいなかったし、母が子を背負って子守をするようなこともなかったはずです。

 しかし、子守娘の「姐や」だとしても矛盾があります。十五で嫁に行って三木家を離れたのはいいですが、「お里のたよりも絶えはてた」が説明できません。「お里」が「姐や」の実家だとして、その便りが途絶えたことが、どうしても書かねばならないほど重要なことでしょうか。しかも、「絶えはてた」と、強い喪失感を表すほどの言葉を使う意味があるのでしょうか。

 三木露風の生い立ちを調べてみると、その秘密がわかりました。
 露風の祖父は町長を務めるほどの立派な人でしたが、父は放蕩者でした。遊郭遊びばかりで家庭を顧みない人だったようです。母は辛かったでしょう。そんな母を見かねて、祖父が母に離縁を勧めます。そして半ば強引に離縁させられ、母は、幼い弟を抱えて郷里の鳥取へと帰っていきました。露風が5歳の頃です。
 ある日、露風が幼稚園(生家のそばには今でも幼稚園がある)から帰ると、家は中に入れないように固く閉ざされ、母と弟の姿はありませんでした。露風の悲しみはさぞ大きかったに違いありません。その後、祖父の元で露風は育てられました。

 母は鳥取に帰った後すぐに上京し、帝国大学看護婦養成所に入学して、看護婦の道を進もうとします。東京の母と露風とは、手紙のやり取りがあったようです。会えないけれども手紙ではつながっていたのですね。
 そんな母も、露風が12歳の時に再婚し、北海道小樽へと移ります。数年の間、露風は母の再婚を知らなかったのでしょう。15歳の時に作った短歌があります。

声あげて呼べば木霊と帰り来ぬああ天地に我領なきや
― 東京に居ます母を呼んでも何の返事もなし、哀れ母は今如何にしてけむ、思えば哀れなりけり ―

 何と悲痛な叫びでしょう。15歳の少年は会えない母に手紙を送り続けました。しかし、その母は既に東京には居ないのです。

 これで3番の歌詞の意味が見えてきましたね。「十五」とは自分が十五歳の頃のことです。「ねえや」とは、姉でも姐でもなく、母だったのです。「お里」は、露風の心の故郷である母を指しています。

 やがて露風は早稲田に入学し、東京での生活が始まります。その後、母も東京に戻り、何らかの交流が始まったようです。それでも、母には新しい家庭があり、元のような母子に戻ることはありませんでした。

 露風が73歳の頃、母が亡くなりました。その夜、露風は母と添い寝をさせてほしいと頼んだそうです。ようやく露風は母と一緒に眠ることができたのです。

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