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【食べ物エッセイ】カレーなのかカレーライスなのか【創作】

『カレーなのかカレーライスなのか』 
                       
P.N. 原賀平太

「じいさん、今日はだれのにする? 西村淳? 東海林さだお?」
しゃべりながら玄関を開け、思わず目をつむった。ところどころ虫食いのあるレースのカーテンをすかして一条の光が差し込んでいるが、それがまるでスポットライトのようにまともに顔を照らしたのだ。眼球を突き刺すような鋭い日差しはワンルームの部屋の奥から玄関まで真っすぐに伸びている。隣の202号室を尋ねたのは、ちょうど西日がきつくなり始める三時過ぎだった。
目をつむる刹那、サッと室内に視線を走らせて胸をなでおろす。そこにはいつもと変わらぬ光景が広がっていた。敷きっぱなしのせんべい布団と、そのわきの小さな黒い人影。鼻の奥にスーっとくる、重ねたとしつきが放つ独特の匂いも、いつも通りだ。どうやらじいさんは本人の覚悟とは裏腹に今日もくたばってはいないらしい。
チャイムも鳴らさずいきなり部屋にあがったけど、じいさんは無反応だ。日がな一日そうしているように、コーヒーの染みがあるタオルケットにくるまって古びた座椅子にちんまりしている。虚空に向けられた濁った目に果たして何が映っているのか、ぼくは知らない。
「久住昌之が途中だったっけ。それともオシャレに石井好子といっとくか?」
挨拶もなしにいきなり本題に入る。それは別のお宅におじゃましているというより、隣の部屋に一人でいるじいさんの様子をちょっと覗きに来たって感覚がぼくにあるからかもしれない。ぼくんちの玄関とじいさんちの玄関はほとんど繋がっていると言っていい。
畳に散らばるエッセイ本を重ね直しながら表紙を読み上げたものの、じいさんの反応はいつにもまして悪い。じいさんの要望で図書館から借りてきたグルメ本たちは、週の前半にはうやうやしく遇されていたものの、後半になると突然やってきては長々と居座る親類に対するのと同じ態度で粗雑に扱われていた。きっと、糖尿病の食事療法の憂さ晴らしに読むものとしてはあっさりしすぎていたんだろう。
「悪かったよ。ウィリアム・ダフティの気分だったなんて思わなくてさ。あれ読んでると気が滅入るんだよな」
出会った頃にはすでに医者の管理下にあったじいさんの味気ない食生活からはとても想像できないが、じいさんはその昔かなりの甘党であったらしい。しかし砂糖とのずぶずぶの関係に古女房である身体がついに耐え兼ね、幼馴染の医者と一緒になってこの愛人を追放してしまったので、じいさんは嘆き悲しんだ。あまりの悲しみに愛が憎しみへと変わるほどだった。それが最高潮に達すると「オメエみてえな毒婦とは手が切れてかえってせいせいすらあ」と啖呵を切って本屋に駆け込み、砂糖を絶対悪にまつりあげ徹底的に批判しつくした本の数々を手に入れたのだった。
その歪んだ愛の残渣が部屋の一隅に残っている。言うなれば、本妻から渡された手切れ金であっさり身を引いた若い愛人に恨みつらみを込めて送った最後のラブレター……いや、ちょっと違うか。ともかくその筆頭がウィリアム・ダフティなわけだが、今はぼくの愛人でもある砂糖を親の仇とばかり痛烈に糾弾する本が楽しい読み物になるはずもなく、「気が滅入る」と独り言ちながら暗澹たる一角に向かいかけたぼくの背を「うおん」というじいさんの咳払いが押しとどめた。
「オメエ……あれ……ゥオホン! カーッ、ペ!」
痰を吐く音だけは盛大にぼそぼそ何事かを口にしたじいさんは、何回目かでようやく聞き取れるだけのことを言った。
「あれだな……飽きた……」
「飽きたって、なにがさ」
「うまい文章も……読み続けると、ほら、あれだ……新鮮味がなくなるっつー……」
「外食ばっかりだと食傷気味になるのと同じかね」
「今日は、あれ……オメエのはなしをしてくれや」
「ぼくのはなしィ?」
「オメエ、あれ……なんか、書いてんだろ……」
「ああ……まあ、ちょっとは……。仕事って言えるほどのもんじゃないけど」
と、こちらもつられてモソモソなる。
「だったら、オメエだってできるだろ……飯のはなしするくらい……」
「え、ええ? どうかなあ……エッセイなんて書いたことないし」
「なに言ってんだオメェ、チェッ……」
ちょっと気弱なとこを見せるとすぐ睨む。たいがいじいさんは口が悪い。でもそれもすぐに疲れたような様子にとって代わった。
「あれだ……カレー……カレーが食いてえなぁ……」
カレー。油と糖質とカロリーの爆弾。血糖値急上昇。糖尿病の敵。食事療法では真っ先にはぶられる切ないヤツ。そんで数多くの日本人の初恋をかっさらっていく憎いヤツ。かくいうぼくもコイツに永遠の初恋を捧げてウン十年になる。
「カレーか……」
一つ真剣に考えてみることにした。
 
ぼくがカレーと聞いて思い浮かべるのは至ってシンプル。茶色くてドロッとしてるヤツ。大ぶりに切った具材がゴロゴロ入ってるけどどれも茶色くてドロッとしたルーにまみれてるから、それが何かは口に入れてみるまで分からない。緑豊かなピーマンやかわいいオレンジ色した人参の素揚げがオシャンティに乗っかってなんていない。まして半分に切ったゆでたまごが白と黄色の断面を見せてカレーを華やかになんてしてない。
具材がゴロゴロしてるって言ったけど、肉を見つけるのは簡単。なぜなら異様に小さくてヒラヒラした、着物の切れ端みたいのがそうだから。肉が野菜と同じ大きさでゴロゴロっと入ってるのは大いに奮発したとき。でも奮発して高いもの食べようってときは、たいがい選択肢にカレーは入らない。だからカレーにはやっぱりヒラヒラの薄切り肉が入るんだ。
肉の種類は豚がいいな。牛肉だったらそりゃあ嬉しいけど、戸惑いが先に来ちゃうね。子供のころから一緒に遊んでた隣の家の女の子がいるんだけど、ずっと野暮ったい格好してたからこっちも男友達みたいな意識でいたらある日綺麗な格好して出かけていくのに偶然出くわしてドギマギして突っかかっちゃう男心……ってな感じですよ。「お、おまえ、急にオシャレしてどうしたんだよ……そ、そんなキャラじゃねえだろ!」ってね。
カレーは家だろうと店だろうと二千円も三千円も出して食べるようなものじゃないんだな、ぼくにとって。あくまで庶民の味。身近な味。お金がなくても食べられるウマいものの味。
値段で言うなら豚肉より鶏肉を使った方が断然安い。のは分かってるんだけど、ぼくは豚肉を煮込んだときに出るコク、いやもうはっきり油と言いましょう! 油が好きなんです! それがカレーを一番美味しくする調味料だと思うほどに愛してるんです! だからここは譲れない一線。どうしても豚肉を買うお金がない! ってとき以外は豚を使いたい。
とはいえ、チキンカレー党も年々派閥を広げていますよね。なにしろ“チキンカレー”っていう言葉があるほどだから。豚肉への愛を語ったぼくも、実際食べてるのはチキンカレーの方が多いと思う。はい、「どうしても豚肉を買うお金がない!」って状況がしょっちゅうなんですね。たぶん、財布に足が生えてるんじゃないでしょうかね。だから知らないうちに中身が減ってるんですね。
鶏肉だったら手羽元なんかが安い上に結構おいしい。やっぱり油がドバドバ出る肉はカレーに合います。ひき肉も安いし油がドボドボ出るけど……あれはキーマカレーとかドライカレーの方面になっちゃうから……ぼくの中では完全に別ジャンル。
こうやって考えると、カレーは奥が深い。野菜ひとつ取っても、人参じゃがいも玉ねぎというオーソドックス系でいくのか、旬の野菜をふんだんに使ったヘルシー路線でいくのか。煮込むのか、後乗せか。肉か海鮮かも選べるし、スパイスは入れるのか、どこの会社のルーが口に合うか、あるいはカレー粉だけで作るのが好きなのか等々、選択肢が無限に広がっている。
カレーについて色々語ったけど、いちばん大事なことはこれじゃないんです。ここまで語ったカレーはまだぼくにとって半分の価値しかない。もう半分を担う大事な相棒がいるんですよ、カレーには。ソイツと合わさって初めて完全体になるんですよ、カレーは。
ほら、お店で「カレーください」って頼むと、何も言わなくてもアレがついてるでしょ? むしろアレにかかってるでしょ? カレーって言ってるけど、カレーだけで食べることないじゃない。アレと一緒に食べるじゃない。そう、米です!
いわゆる、カレーライス。カレーと聞いて頭の中に思い浮かべるのは、茶色くてドロッとした姿だけじゃない。お皿のもう半分には白くてツヤツヤしたお米がいるんです。白と茶色……。茶色いカレールーが白飯をぜーんぶ覆ってるんじゃない。子供のころは断然それが良かったけど。ここで大事なのはイメージです。半分はカレー、もう半分は白飯。一皿のなかでこんな風に自分の座す位置を慎ましく守っているところが、「ああ、カレーだなあ」ってしみじみ感じる所以じゃないでしょうか。だからぼくはカレー、カレーって言ってるけどそれは、「カレー(ライス略)」って言ってるわけであって、決して茶色くてドロッとしたものだけを思い浮かべて語っているわけじゃないのです。
この、ぼくの中に強固にこびりついているカレー(ライス略)へのイメージ。これはカレーが歩んできた歴史、いわば一昔前のカレーの姿に愛着を持っているからかもしれない。カレーライス、と聞くと、令和の今でも昭和の香りが漂ってくるように思う。
国民の多くが決して富裕ではなかったあの頃、安上がりでうまくて、なにより白飯を腹いっぱい掻っ込めるカレーが、みんな好きだった。急激な文明化への混乱と不安を、戦後という解放感が力強く支えた時代。素朴でありながら雑多という、今は失われた両極を兼ね備えた街の中を、工事の音に交じってふわりと漂ったのが、カレーの匂いだ。
店からも家からも同じ匂いがした。暗くなるまで空き地で野球をしてきた少年がすきっ腹で散々この匂いをかぎながら帰ってくると、家にたどり着く頃にはお腹はグーグー鳴りっぱなし、もはや一刻の猶予も許されない事態となっている。だから表の玄関なんて使わない。鍵あけっぱなし、扉あけっぱなしの裏口からダダ―ッと駆け込んで、縁側からバタバタバタッと入ってくる。
「かあちゃん、はらへったー! 早くめしー!」
「アンタ泥だらけじゃないの! 手くらい洗ってきなさい!」
見ると確かに白いタンクトップは砂ぼこりですっかり灰色に変わっている。膝小僧には擦り傷ができていたりして。坊主頭の汗をタンクトップの裾でぬぐいながら洗面所に駆けていって、戻ってくると湯気の立ったカレーが待っている。
カレー皿なんてないからみんなそれぞれ違う皿によそってある。かあちゃんは小鉢に小さく盛ってる。妹は犬の絵がかいてあるお気に入りのプラスチック皿。幼稚園のころから使ってるからもうボロボロなのに、全然捨てる気がない。自分の皿が一番大きいのが少年には嬉しい。煮物用の深い皿だからたくさん入る。これだけでゴキュンと喉が鳴る。
水がなみなみと入ったガラスのコップにスプーンが差してあって、福神漬けはないけどラッキョウの甘酢漬けがあるから、かあちゃんがこれを山ほどみじん切りにして卓袱台の真ん中に置いてくれている。いただきますと手を合わせる時間も惜しくて、「いたきま!」なんて言いながらガチャッとスプーンを引っ掴むと、水がポタポタたれるのもかまわずにラッキョウをわっさー取って、カレーにのせて、そのまま掻っ込む。
「おいしい?」
なんて聞かれても口の中ギューギューだから答えられない。黙ってうなづく。何度もうなづく。首がもげそうなほどうなづく。うまい!
……と、こういった具合に、ぼくのカレー感は昭和的妄想を支柱にしている。はい、妄想です。実体験じゃないです。この妄想がどこから来たのかって聞かれると困るんだけど、とにかく、<卓袱台・坊主頭のタンクトップ少年・割烹着のかあちゃん>がカレーライスの中にいる。<過去(誰かの)>と言えばいいのか、<思い出(誰かの)>と言えばいいのか、カレーのあの強烈な香りは、時間の香りでもあるんじゃないかなあ、と思う今日この頃。
 
「どうだ!」
緊張からか照れ臭さからか、異様に火照る顔を上げたぼくは、じいさんのしわだらけの無表情に変化が現れるのを今か今かと待った。チラシの裏に書き殴った初エッセイ(?)を読み上げたところである。すでに陽は沈み、LEDの白々した光が独り者のわびしさを克明にする時間となった。長い道のりだった。
元来、話し下手なぼくだ。だいたい学生時代に、“話にオチをつけらんねーヤツ”、“「要するに何?」って言いたくなるヤツ”、“前置きで休み時間が潰れるヤツ”の三悪評をことごとく背負わされてきた人間に「なんか話してくれ」と突然言うのは無茶ぶりが過ぎる。「あい、そいじゃあね、これアタシのじいさんの話なんですけどね・・・・・・」というふうにはいかない。講談師よろしくここは即興でやってみるかと話し始めたはいいものの、じいさんの「チェッ」が三分おきになり、一分おきになり、三十秒おきになったころ、ぼくの心は折れた。
「ちょっ、台本書かせて……」
モソモソ言ったのが一時間前。盛大な「チェッ」が鳴り響いたのも一時間前。いかな頑固ジジイもその間のぼくの悪戦苦闘を目にすれば心動かされずにはいられないはずだ。
ぼくは待った。髭が抜け落ち、妙にツルツルしたじいさんの頬に人情の欠片が浮かび上がってくるのを。じいさんの辛口には慣れっこだ。あれはちょっと翻訳にコツがいるだけの他言語にすぎない。「もたもたやってんじゃねえ。死ぬまで待たせる気か」は「楽しみでとても待ちきれません。期待で今にも胸がはちきれそうです」という意味だから全然問題ない。毒舌悪口どんとこいだ!
しかしじいさんがいざ口を開いて言ったのは全く関係のないことだった。
「ん、あー……あれだ……さだお、東海林さだお」
「え?」
「読んでくれや」
「え、いやいや、そうじゃなくてさ。ぼくの話を聞いた感想をくれよ。じいさんが頼んだことだろ?」
まったく、じいさんはボケてるから困るよ。ぼくは一言も聞き漏らさないよう耳をそばだてた。
「ん? んー……そう、あれ、あれだな。たまに不味いもん食うと、うまいもんのありがたみが分かるよな……。だから早く、東海林さだおを読んでくれや」
「チェッ!」


<他、詩と童話はこっちで書いてます>

■なもなも■


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