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【小説】「渋谷、動乱」第2話

 大澤美桜おおさわみおが、高校時代の友人の中村早矢香なかむらさやかと、あらかじめ調べに調べ尽くしたルートを通り、その街の裏通りにある、知る人ぞ知る古着屋を訪れようと思ったのは、その日が初めてだった。
 地下鉄のホームからエレベーターで地上に上がり、新宿駅の改札を抜け、平日の真昼間にもかかわらず、若者たちの姿でごったがえす竹下通りに出た時、すでに2人はかなりの体力を消耗していた。自宅のアパートから、今日だけ特別にタクシーに乗り、電車に乗り、ここまで美桜が乗る車いすを押し続けてきた早矢香の額には、じんわりと汗が滲み、リュックを背負う背中も湿り始めていた。今日の関東地方は軒並み真夏日になると、民放のお天気キャスターの栗原浩平くりはらこうへいが言っていたことを、今更のように早矢香は思い出した。
 2人の目的地まではまだ、ここから直線にしても、約1キロ以上の距離があった。自由の利く上半身をねじり、ちらちらと背後の早矢香の様子に気を配っていた美桜も、早矢香が軽く肩で息をしていることは分かっていた。早矢香は暑さに加え、人混みが苦手だった。
「さやか、ちょっと休憩してもいいよ」
 たまらず、美桜が声を掛ける。
「うん。ごめん。ちょっとのど乾いた」
 ――今日はお互い、遠慮しない。それがこの日、目的地の古着屋までたどり着くために、2人で決めた大切な約束事だった。

 2人の出会いは、中学時代にさかのぼる。同じ学校ながらクラスが違ったため、あまり面識のなかった2人は、時期は異なるが、それぞれのクラスで、女子グループや男子からあからさまな虐めを受けていた。
 美桜は小学生の時、下校中の歩道に、意識を失い、制御の利かなくなった谷野太朗やのたろうが運転する乗用車が突っ込んできた際の事故が原因で、車いすでの生活を余儀なくされることになった。小学生にしては気の遠くなるようなリハビリ生活を経て、ようやく退院が叶ったのも、6年生の2学期に入ってからだった。
 その後、同級生と同じ中学校に入学することになった際には、事前に美桜のクラス担任となる予定だった林田公親はやしだきみちかと、美桜の母親の眞理子まりことの三者面談の機会が持たれた。  
 3人は、美桜の学校生活に当たり、どのような対応をしていけばいいのか真剣に話し合った。美桜は、できればクラスのみんなに負担はかけたくない、自分のことは自分でしたいとはっきり申し出た。美桜は小さな頃から人一倍責任感が強く、事故があった後も、自分のことよりも同じく事故に巻き込まれた友達や下級生のことを気に掛けるくらいだった。そんな美桜の性格を知る眞理子は、娘の言うことに深く頷きながらも、林田に向かい、何とか手を貸してほしいと目で訴えた。林田はこういったケース、車いすの生徒を普通教室で預かることは初めての経験だったが、美桜の力強い言葉を受け、その意志を最大限尊重したい気持ちを持った。だが一方、目の前で実際に美桜の状態を見て、それは叶わぬものだとも理解していた。何度も揺らぐ気持ちに判断を迷いながら、林田が出した結論は、美桜にそれぐらいの意志と覚悟があるのであれば、今後の人生を考えた場合、ここは美桜の気持ちに掛けてみても良いのではというものだった。ただ林田も、それだけでは現実的ではないと、美桜にある条件を出した。何か困ったことがあったら、必ずクラスメイトや先生に声を掛けること。良いね。林田がそう言うと、美桜は分かりましたと答え、翌月から美桜の中学校生活が始まった。
 ――が、良くも悪くも、それがすべての始まりでもあった。

 2人はとりあえず、人通りが少ない、1階にドラッグストアが入っている建物のビルの物陰に移動した。早矢香はよほど喉が渇いていたのか、リュックから取り出した水筒のミネラルウォーターを、一息で半分くらい飲み干した。
「ちょ、飲みすぎ」
 美桜に指摘された早矢香は首を振り、
「ん」
 美桜にも飲むようにと水筒を差し出した。美桜は言われるまま、水筒のミネラルウォーターを口に含んだ。ビルに日差しが遮られ、少しずつ早矢香の汗も引いていった。
「今日別に、ハロウィンとかじゃないよね」
 通りの方に顔を出し、左右を見渡しながら、早矢香がそう口にするのも無理はなかった。ビルの物陰に立ち止まる2人の目の前を、一体どこから沸いて出てくるのか、ひっきりなしに大勢の若者たちが通り過ぎていく。高速道路のように、合流のタイミングを1つ誤れば、人同士が衝突事故を起こしそうなくらいだった。
「――ねえ、どうする」
 水筒を返しながら、美桜が心配の声を上げた。普段負けん気の強いはずの美桜のその言葉が、早矢香を少し不安にさせた。
 そもそも、今回の計画を申し出たのは早矢香だった。美桜は常日頃から、ほんとはもっとおしゃれしたいと、早矢香にだけは打ち明けていた。美桜は母親の眞理子に頼んだり、ネットで注文することもできたが、やはり服は試着してみなければ分からない。着心地やパーソナルカラーとの相性のほか、車いすだと背中が見えなくなるため、思いの他、疎かにしてしまいがちだが、隠れた部分にこそこだわるのがおしゃれであり、美桜の美意識だった。また美桜は背中に、自分では上げ下げが難しいファスナーが付いた服が、どうしても欲しかった。自分ではできない、と言うところがミソで、その理由を聞いた早矢香は、あんた馬鹿じゃないのと笑いながらも、美桜の切実な願いに絶対に応えたいと思っていた。
 リュックに水筒をしまい、ハンドタオルで首筋の汗をぬぐった早矢香は、
「ほら、いくよ」
 と言って、車いすの左右のブレーキを外し、持ち手に手を掛け、よいしょと言って車いすを押し出し、通りへと出た。
 
 学校初日、美桜がクラスメイトの前で自己紹介を終え、廊下側の一番前の席に戻り、担任の林田が補足として、美桜との付き合い方について説明をした後のことだった。美桜の後ろに座っていた女子生徒が、美桜の肩を手でトントンと叩き、
「――ねえ。何かあったら、わたしに言ってね。なんでもするから」
 声を掛けてきた女子生徒は、高田璃子たかだりこだった。美桜の目から見ても、中学1年生にしては大人びた、きれいな子と思うような女の子だった。
 放課後の帰り際、大澤さん、と璃子に呼び止められ、美桜はクラスで初めてLINEのIDを交換した。その日の夜から早速、2人のやりとりは始まり、1週間後にはすっかり友達になった。璃子は3つ上の兄の影響もあり、漫画やアニメが好きだった。独り密かにオタクを自称していた美桜にとって、願ってもいない同志が出来たような気持ちだった。事故のことを悔やむことは数えきれないほどあったが、この学校に来て良かった、璃子と友達になれて良かったと、その時、心から思った。
 
 校内で璃子と一緒にいると、何かと男子の視線を感じるようになったのは、それから間もなくのことだった。同級生はもとより、上級生からもたまに声を掛けられることがあり、そのたびに璃子は、顔では笑顔を作りながら嫌そうにあしらっていた。美桜は璃子のことを大変だろうなと思いながら、友達として誇らしい気持ちも抱いていた。
 そんなある日、とうとう璃子が、2年生の先輩に呼び出されることになった。美桜は心配になった。璃子が誰かと付き合うことになるのは良いけど、自分との時間が減ったり、最悪なくなったりしてしまうのは、絶対に嫌だと思った。それだけは避けたかった。リハビリの時みたいに、また独りになるのは我慢が出来なかった。
 一方の璃子は、言葉で言わなくとも、美桜がそのように思っているであろうことを敏感に察し、大丈夫。わたしは美桜と一緒だから、と伝え、後日、先輩との約束の場所に出向いた。ところが、先輩の岡田雄太おかだゆうたの話は、自分が何となく予想していた「告白」ではなく、陸上部への勧誘だった。璃子は肩透かしを食らったような気持ちになった。心のどこかで何かを期待していた自分がいたことを、恥ずかしく思った。
「高田さんって、県大会出てたよね。走り高跳びで」
 璃子は黙ったまま頷いた。
「部活はまだだよね。決めるの。良かったらなんだけど、体験入部でもいいから一度、陸上部に来てもらえないかな。先輩からさ、高田さん連れてきてって頼まれちゃって。ダメだと俺、怒られるんだよね」
 岡田は短髪の後頭部をしきりに撫でながら、3年の先輩から頼まれたことを強調した。その態度を見て璃子は、彼は決して悪い人ではないのだろうと思った。
「今すぐ、じゃなくて良いから。そうだな、来週。うん。来週までに考えてほしいんだ。良いかな?」
 先輩にそこまで言われ、無下に断れる璃子ではなかった。
「はい。分かりました」
 璃子はそう答え、この話を美桜のもとに持ち帰った。

「入りなよ。絶対、活躍できるって」
 美桜は開口一番、璃子にそう伝えた。美桜は璃子が陸上をやっていた話も、県大会に出ていた話も聞いていた。美桜は璃子の走り跳ぶ姿を、この目で実際に見てみたかった。それも、大きな舞台で。美桜は自分が走ることが出来ない分、璃子に思い切り走って欲しかった。美桜の言葉に背中を押された璃子は、約束の期限の日、陸上部の部室を訪ね、体験入部を申し出た。そして璃子はそのまま、陸上部員となった。
 以来、放課後や休日に過ごす美桜と璃子の時間は、少しずつ少なくなっていった。勉強に部活にと忙しくなった璃子に、美桜は以前のように声を掛けたり、連絡したりはしなくなった。あれだけ仲の良かった2人の関係が、こうも簡単に離れ離れになってしまうとは、どちらも全く思ってもみなかった。仲の良い友達が結局、璃子だけだった美桜は、自然、クラスの中で孤立することになった。そこに目ざとく目を付けたのが、吉田凪よしだなぎ率いる女子グループだった。美桜は小学生の時にからかわれることはあったが、虐められるほどのことはなかった。ために、実際に虐めに直面した時、何をどうしたらいいのか、まったく分からなくなってしまった。璃子にも相談できなかった。林田先生に助けを求めることも出来なかった。母親にはなおさら、話せるわけがなかった。日に日に美桜の目から光が消えていくのを、他のクラスメイトはただ黙って見ていた。だがそれは、決して特別なことではなかった。今この瞬間も、どこかの学校内で起きている現実に過ぎなかった。間もなく、美桜は学校に行かなくなった。

 竹下通りは、2人が思っていた以上に道幅が狭く、大型のトラック1台がやっと通れるくらいだった。前から後ろから、1人または2、3人のグループが、無限に増殖してくるかのように行き来していく。人にぶつからないように慎重に車いすを押し進める早矢香をよそに、美桜はすれ違う人々のファッションや身に着けているアイテムに目を止めては、目を輝かせていた。
「すごいね、やっぱ」
「もう二度と来たくないかも」
 初めて訪れた場所で、違う景色を見て、違うことを考えている2人の会話は、親友とはいえ、時々嚙み合わなくなった。美桜は自分の役割を思い出し、スマートフォンに目を落として、早矢香への道案内を再開した。道中、美桜はほとんど気付いていなかったが、早矢香は自分たちに向けられる何気ない視線の数々を、痛いくらい感じていた。
 前から歩いてきた髪をブルーやオレンジに染めた男子たちが、ふと足を止めたかと思えば、彼らはスマートフォンを取り出し、格好の被写体を見つけたかのように、2人に向かって当たり前のように構えた。早矢香は彼らに鋭い視線を向けたが、彼らの顔はスマートフォンに隠れ、目が合うことはなかった。かすかにシャッター音がし、早矢香はにわかに怒りを覚えた。自分だけであれば、彼らに文句の1つでも言っていたところだったが、美桜がいる手前、面倒ごとを起こすわけにはいかず、ここはぐっと気持ちを抑えるしかなかった。彼らとすれ違う際には、美桜に話しかけるふりをして視線を落とし、心の中で「お前らしばくぞ!」と罵った。
「――あそこのクレープ屋さん。そこを右に曲がって」
 早矢香の心の内など、露知らない美桜は、律儀に道案内を続けた。美桜が指さした先に早矢香が目を向けると、視線の先に外観がすべてピンク色に塗られたひと際派手な店が現れた。2人とも、テレビで何度か見たことのある有名なクレープ屋だった。

 早矢香への虐めが始まったのは、2年生の2学期に入ってからだった。ある日の昼休み、教室で総合格闘技の真似事をして、次第に白熱し、お互い力を入れて組み合っていた男子生徒2人の内、体重が80キロ近くあった小山内源太おさないげんたが後ろにバランスを崩し、早矢香の机を思い切り突き飛ばしてしまった。机は派手な音を立てて倒れ、中に入っていた教科書やプリントの類いがあたりに散らばった。悪気なく、――ははは、悪い悪いと言いながら、プリントや教科書を拾い、倒れた机を立て直した小山内だったが、再び庄司亮太しょうじりょうたと組み合うと、今度は2人で示し合わせたかのように、わざとらしく後ろにバランスを崩して見せ、また早矢香の机を突き飛ばした。
 たまたまと言えば、たまたまだった。たまたま、小山内源太がぶつかったのが早矢香の机だったというだけで、そこに必然性はこれっぽっちもなかった。だが、小山内源太が早矢香の机を繰り返し突き飛ばしたことで、なんとなく周りに、早矢香の机は突き飛ばしても良いんだという、おかしな共通認識が生まれ、翌日の昼休みには、別の男子によって早矢香の机は突き飛ばされることなった。幸か不幸か、実は両日とも、その場に早矢香はいなかった。早矢香は、前日は先生に頼まれ、職員室で次の数学の授業の準備を、翌日はトイレで、同じソフトボール部の坂下麻耶さかしたまやとおしゃべりをしていた。早矢香は教室に戻っても、自分の机がさっきと若干ずれているな、あれ、プリントこんな順番だった? くらいにしか思わなかった。
 翌日、さらに翌日も、たしかにずれてはいたが、それこそ、たまたまだろうとしか思わなかった。そして、早矢香の机に対する、男子生徒たちに言わせれば悪戯が、早矢香自身に対する悪戯、いや虐めに代わるのは、それからあまり時間は掛からなかった。あの当時を振り返り、生徒たちになぜ、早矢香を虐めたのか、その理由を聞いても、誰もが納得するような答え、動機はおそらく返ってこないだろう。――ほんと、たまたまなんです。ただそこに、中村の机があっただけなんです。とでも答えたに違いない。そうして泣く泣く、不登校に追い込まれた早矢香が、同じく学校に行けず、居場所を無くしていた美桜と出会ったのは、早矢香が母親の絵里から勧められた、隣町にある「若葉」という名前のフリースクールだった。

 クレープ屋の角を右に曲がった先には、100メートル近い緩やかな坂が続いていた。2人にとってこの坂が、その日、最大にして最後の難所だった。ここさえ乗り越えれば、目的地にはたどり着いたも同然だった。
「良い? みお、行くよ」
「うん」
 2人の決心は固まり、心も同期した。一心同体となった。――が、早矢香が車いすを押す腕に力を込めて、一歩を踏み出そうとした次の瞬間だった。
 2人が歩いていた竹下通りから、直線距離にして約1キロ離れた通りに店舗を構えていた、美容師の藤堂凌太朗とうどうりょうたろうが耳にしたあの地鳴りが、竹下通りを歩いていた若者たちの耳に、もちろん美桜と早矢香の耳にも届き、周囲はにわかに騒然となった。多くの人たちが第一に、地震だと思った。だが、すぐにそうではないと分かると、その内、半分の人たちは何事もなかったかのように自分の日常に戻り始めた。もう半分の人たちは何かあったのかと考え、情報を集めようと、インターネットやSNSで検索を始めた。さらにその内のごく一部の人たちは、嵐の前の前触れのような嫌な予感を覚え、この場から離れ始めた。

                               つづく

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