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連載【短編小説】「わたしの『片腕』」あとがき

 皆さんどうも、灰かぶりの猫です。

 岩手も桜満開。一度、雨に打たれはしましたが、濡れた花びらも、また一興というものでしょう。散った桜の花筏に乗船すれば、知らず知らず、常世にでも流れ着きそうです。

 さて今回は、川端康成の短編『片腕』を枕に、短編をしたためてみました。実を言いますと『片腕』は、今までに一度しか読んだことがありませんでした。短編を書くにあたり、長い時を経て再読してみたのですが、語り手の私が、自分の腕と娘の片腕を付け替える場面があるなどと言うことは、まるっきり記憶にありませんでした。私が娘の片腕と、怪しげで官能的な一夜を過ごす。初読がおそらく十代だったせいか、そのような印象だけが強く脳裏にこびり付いていました。
 小説家の保坂和志さんが書いていたような気がしますが、カフカの小説を何度読んでも覚えることができないように、小説とはそもそも、「記憶すること/されること」を拒む媒体なのかもしれません。また、誰かの言葉をうろ覚えでもじれば、小説とは、読んでいる最中にしか立ち上がらない想像の舞台芸術であり、視覚運動なのかもしれません。

 『片腕』に似た作品(と勝手に思っている)に、読書案内でも取り上げた倉橋由美子さんの『霊魂』という短編があります。新潮文庫では、『ヴァージニア』というタイトルに収録されています。婚約者のMを病気で亡くしたKのもとに、「わたしが死んだら、わたしの霊魂をおそばにまいらせますわ」というMの遺言通り、葬儀が終わり、骨揚げも済んだ夜に、Kがひとり書斎で本を読んでいると、「お待たせしましたわ」と、Mの霊魂がKの膝に上がってくるのです。

 それは半透明の塊で、さだまった形はないようで、二、三歳の子どもほどの大きさのものだった。

 驚きました。こちらも記憶では、霊魂の大きさは、手のひらに収まるソフトボール大だとばかり思っていましたが(心臓のイメージでしょうか)、とんでもない。まさか、幼い子どもほどの大きさだったとは。金輪際、自分の記憶は信用しない方が良いかもしれません。
 それはともかく、ここからMの霊魂とKの、ユーモアあり、官能あり、ペーソスありの交歓が始まります。ここは読書案内のコーナーではないため、これ以上は触れませんが、いつかこういった物語も書いてみたいと思わせる、不思議な魅力を秘めた短編です。もし良ければ、一読を。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。また次作で、お会いできることを楽しみにしています。

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