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【短編小説】「ベッドシェア」(3/3)

 その日の彼は、困ったことに腰をやってしまい、ベッドから起き上がることができなくなってしまった。全くもって、予想外の出来事だった。これではまた明日も、この彼と同じベッドの上で眠らなければならなくなる。それだけは、どうしても御免だった。
 わたしは粗大ごみでも扱うように、大柄で毛むくじゃらな彼を、無理にでもベッドから引きずり降ろそうと思ったのだけれど、彼は冷蔵庫のように重く、問答のために会話をしようにも、生憎あいにく彼は、わたしの言語を解さなかった。わたしは本気で、大きなため息を吐いた。間もなく、出掛けなければならない時間になり、わたしは仕方なく部屋を後にした。

 ――困ったことになった。こんな時は、どうすればいいのか。会社まで、道々考え続けていると、ベッドだけなく、頭の中まで大柄な彼に占拠されてしまいそうになった。そうだ。いっそのこと、彼を含めてベッドごと、どこか引き取ってくれるところを探せば良いのかもしれない。と、その瞬間は妙案のように思えたのだけれど、わたしはすぐに却下した。彼のことはどうでも良いのだけれど、あのベッドだけは変えるわけにはいかなかった。わたしが安眠するためには、どうしてもあのベッドが必要だった。
 仕事の合間にも、考えに考えた挙句あげく、とりあえず今夜は解答を保留とし(と言うより、答えが出せなかった)、わたしはあのベッドのある部屋へは帰らずに、適当に当たりを付けたビジネスホテルに泊まることにした。

 まるで浮気でもしているような気持ちで、気もそぞろにチェックインを済ませ、部屋へと向かう。カードキーを使い、中へと入る。気持ちがそわそわして落ち着かない中、備え付けの寝巻に着替え、人の形に布団が膨らんでいたベッドに恐る恐る入ると、その日はすでに彼女が眠りに就いていた。
 からだを横にして、ベッドの中央(つまりわたしの方)を向いていた彼女は、からだを丸め込むようにして、眠りながら親指の爪をかじっていた。歯ぎしりほどではないけれど、彼女が前歯で親指の爪を齧る音は、たまらなく不快だった。彼女に背中を向け、慣れないベッドの弾力の上で瞼を閉じ、何とか眠りに就こうとしたものの、彼女が立てる音が、絶えず何かを食らう咀嚼そしゃく音にも聞こえ、断続的に虫酸むしずが走った。これなら、腰痛の彼とベッドを共にしていた方が良かったかもしれない。

 スマートフォンの時計を見ると、深夜零時を過ぎていた。そういえば、今頃彼はどうしているのだろうか。まだ、わたしのベッドから起き上がることができず、布団をかぶったまま、冬眠を続けているのだろうか。それとも、ようやく腰の痛みから抜け出し、すでにベッドはもぬけの殻となっているのだろうか。わたしはベッドを共にした他人のプライベートには、決して干渉かんしょうしないと心に決めていたのに、その時初めて、彼のことが気になった。――そしてまた、背中の彼女のことも。
 ここは思い切って行動を起こし、彼女の腕を取って、親指の爪を噛むのをやめさせるべきだろうか。それは確かに、第一に自分のためではあったけれど、もしかしたら、彼女のためにもなるのではないだろうか。今まで一度として触れたことのないベッドの中の他人に、わたしは今、初めて触れてみようと思い立った。

 意図をもって寝返りを打ち、自分の拘束具のような腕組みを解き、恐る恐る彼女の細い腕に手を伸ばした。手首をぎゅっと掴む。眠っている割には、彼女の腕は芯の通った棒のように固く、力がみなぎっていた。これは容易ではないと思いながらも、わたしも腕に力を込め、彼女の腕を彼女から引きはがそうとした。少なからず抵抗があったけれど、動く。大丈夫だ。彼女の腕は自分の身をまもるようにこわばってはいたけれど、導くように腕を引いてあげれば、彼女の腕は自ずとわたしの力に従ってくれた。と思う間に、彼女の口から親指が離れる。それでもまだ、彼女の前歯は何かを齧ろうとしていたけれど、前歯はかしかしと空転するばかりで、やがて齧るものがないと分かると、彼女の口は鳴りを潜めた。
 部屋が驚くほど静かになる。本当にこれで良かったのだろうか。そう思いながら彼女の腕から手を離そうとすると、彼女の腕は再び、元の位置に戻ろうとしたので、わたしは彼女の腕から手が離せなくなった。わたしは仕方なく、彼女と向き合うような格好で、彼女の腕を握りながら眠ることにした。

 夜が明けた時、わたしの手の中に彼女の腕はなかった。ただ、ベッドサイドのテーブルの上の鏡に、ありがとう、と一言だけ記された付箋が貼り付けられていた。寝巻から着替え、部屋を出る支度を済ませたわたしは、最後に彼女からのメッセージを受け取り、部屋を後にした。
 地下鉄の満員電車に乗り、しばらくして、ため息のように車内から吐き出されたわたしは、後ろから押し寄せる人波も気にせず、ゆっくりとホームの階段を昇った。そして改札を抜け、駅を出て、足をそろえて横断歩道で立ち止まった時だった。横断歩道の向こう側に、壁のように立ちふさがる人たちを前に、わたしはふと、今夜なら、自分の部屋に帰ってみても良いかもしれないと思った。
 ――わたしの隣に眠るのが、例え誰であったとしても。
                               おわり

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