システムクラッシャー①:映画感想文
作品名:システムクラッシャー
監督 :ノラ・フィングシャイト
主演 :ヘレナ・ツェンゲル、
音楽 :ジョン・ギュルトラー
主題歌:Ain't Got No, I Got Life ニーナ・シモン
あらすじは公式ホームページを参照「https://crasher.crepuscule-films.com/」
※ネタバレあるので、作品を鑑賞してから読まれることをお勧めします。
あらすじだけ読むと、幼少期のトラウマが原因で周りが手を付けられない程の問題児になってしまった女の子が、山小屋で3週間過ごすことで、問題行動が減り、母親のもとに帰って幸せに暮らせるようになる物語なのかなと思って観ましたが、全然そうではありませんでした。
誰もどうすることもできなかった
非暴力トレーナーのミヒャ
ソーシャルワーカーのバファネ
児童精神科の小児科医
里親
児童養護施設職員
それぞれが、各々の専門性を生かしてベニーのためにできることをやった
しかし、誰もベニーを安定化させることができなかった。
なぜだろうか?
父親からも、母親からも愛された経験が乏しいベニーには居場所が無かった。
存在するだけで愛してくれる人、愛してくれる人がいる場所が無かった
ベニーはバファネ、里親、ミヒャ、児童養護施設などにそれを求めたが、これらが提供する愛は、ベニーが求めている愛とは違った
本当の親の愛以外でベニーを癒せるものはないのか?
ミヒャは、どのような考えでベニーを山小屋に連れて行ったのか?
これまでに、山小屋で子供たちは心を入れ替えてきた経験があったから、自信があったのかもしれない。
ミヒャは山小屋で過ごしてベニーに穏やかになってほしかったのだろうが、
ベニーはミヒャと親しくなるにつれて、ミヒャが自分の父親になることを望み始めていた。
ミヒャもベニーの気持ちが分かっていたし、何が必要なのか分かっていたのかもしれない
分かっていたからこそ、専門家として、自ら家庭を持つ父親として、ベニーとは距離をとる必要があった
しかし、ミヒャは距離を縮めてしまった
距離を縮めてもベニーが求める物は提供できないことは分かっていたのに
雪の中でベニーとミヒャが分かれるシーンはとても印象に残った
雪の中を走り追いかけてほしかったベニー
走り出すが途中でこれ以上追いかけてはいけないと悟るミヒャ
それを悟るベニー
二人の表情・視線がとてもやるせなかった
ベニーをケアする人たちにはプロフェッショナリズムがあり、ベニーだけに実の親並みの愛を提供することはできない(公平性の問題)
また、一人の人間として、ベニーだけに人生を捧げられるほどの余裕がある人はいない
では、誰が、ベニーに愛を届けられるのでしょうか?
ベニーはどうしたら救われるのでしょうか?
何もできなくても関わり続ける
この映画は、その答えを提示してはくれなかった(監督のインタビューから、それを目的としていないことは明らかである)。
エンドロールで主題歌のAin't Got No/i Got Life(ニーナシモン)が流れた時は、この曲はこの映画のために作られたのかのように感じ、感動で涙が出そうになった。
私には家も、友達も、学校も、父親も母親も神を愛もいないけれど、
私には手も、足も、指も肝臓も血液もある
そして命がある
なんて良い歌なんでしょうか
誰の手にも負えないけど、生きていることが、命があることが大事である
命さえあれば、何か、彼女のためにできることは残されているだろう
映画が終わった時、ベニーはこの後どうなるんだろうか、どうすればよかったんだろうか、とやるせない気持ちになったが、この歌を聞いて、
命さえあれば、かかわり続けることができる
関わり続ければ、解決はできないかもしれないが、彼女を安定化させる術が見つかるかもしれない
家庭医療的には、このようなケースはクネビンフレームワークで言う「chaos」なケースに分類されるだろう(説明は省くが)
解決を目指さずに、いかに安定化させるか、多職種で長期的な視点で、粘り強く関わり、試験的な介入を繰り返すことが必要である
ソーシャルワーカーのバファネのように、一定の距離を保ちながらベニーのために忍耐強く関わり続ける。そういう人が集まるチームができれば、いつかベニーは安心して過ごせる場所を見つけられるかもしれない
感想文②は余裕があったら書きます。
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