【記憶より記録】図書館頼み 24' 2月
二八の月は、商売が低調になりがちと言われていますが、忙しさの点では全く別もの・・・というのが個人事業主でもある私の実感です。年度末を前にしたこの時節は、始末をつけなければならない雑事が盛沢山。その中の1つとして納税に関わる会計作業があります。
毎年3月に忙殺されることが決定している私の場合は、正月休みの間に決算(青色)の準備を整え、業務提携先等が送付してくる支払調書等の到着を待ってから最終確認を行い、特別な事情がない限り、確定申告の受付が始まる2月16日に完了させるようにしています。(消費税申告も同時に処理。)
この習慣・・・開業して23年間継続しています。滅多に自分で自分を褒めることをしない私ですが、この習慣だけは褒めていたりして(笑)。
それとは別に、最近気になることもあります。
国会のゴタゴタを受けて「確定申告ボイコット」なるハッシュタグが散見されているみたいですね・・・。#による意思表示が有効なのは分かります。ただ、リテラシーが欠如した人々や悪目立ちを厭わない人々の存在を想像すると、えもいわれぬ不安が湧いてくるのです。さすがに「赤信号みんなで渡れば怖くない」とばかりに申告をボイコットする人がいるとは思えませんが・・・どうなんでしょう?
実際、後ろ盾のない一般市民(私)が、税金の申告をボイコットしたらどうなるか? それは推測するまでもなく、時を待たずして手痛いペナルティーを喰らって終了となるのが目に見えます。やはり、関係省庁や議員等に対する申し立て・具申・文句の類は、義務を果してから実行した方が賢明でしょう。いずれにせよ、世に流布されている「無責任な他人のつぶやき」に翻弄される必要は無いと言うことです。
それにしたって酷いのは「国民の代表」を標榜する議員の情けない有様です。今に始まったことではありませんが、これ以上「厚顔無恥な大人のサンプル」を、未来ある子ども達には見せたくないものです。
とまぁ、いつにも増して前置きが長くなってしまいましたが、早速2月の「図書館頼み」を備忘して参りましょう(汗笑)。
1:日本のまつろわぬ民 漂白する産鉄民の残痕
著者:水澤龍樹 発行:新人物往来社
折に触れて図書館から借りて読んできた一冊なので、今更ながら感想を述べるのも億劫に思えてしまうのだが、この「図書館頼み」は自身で決めた取り組みであることから、手短にでも備忘しておこうと思う。
本書は、歴史の襞に見え隠れする一所不住の人々「産鉄民」にまつわる話が収められている。
彼ら「伏わぬ民」が紡いだ物語は、歴史の教科書に載ることは無く、むしろ歴史の枠外に追いやられていると言うのが現実であろう。しかし、彼らは古から伝わる多様な記録(古事記を筆頭とした数多の御伽噺や各種芸能など)に登場し、獅子奮迅の活躍を見せてくれるのだ。
著者は、時に鬼として、妖怪として、山人として、忍者として、遊芸の徒として、巫女として、渡世人として・・・それ即ち、異形の者、或いは化外の者の中に漂う「産鉄民の残痕」を見い出そうと試みている。
著者の豊かな想像は、火や金属を扱うことを生業にした名も無き人々のドラマであって、飛躍を伴った頓珍漢な著者の夢物語ではない。
それは、古典的な資料を歪な目で読み解くことをせず、登場人物の背景や物語の行間から滲み出る金気を鋭い嗅覚で抽出し、必然性を以て持論に展開していることからも断言できよう。
本書のそうした部分が、私に再読を促しているのだと感じている。つくづく新人物往来社ならではの本だと思う。歴史の教科書に飽いた学徒や、周縁の歴史に興味がある方に薦められる一冊でもある。
2:日本子守唄集成
著者:尾原昭夫 出版:柳原出版
子守歌をどう捉えるか・・・によって、心に描く景色が大きく異なる。
その一つの方法として「読み方」に注視したい。
即ち、子守歌を「こもりうた」と読むのか、はたまた「こまもりうた」若しくは「こまもりのうた」と読むのか・・・という指摘である。
私は「こまもりうた」「こまもりのうた」という読み方を以て子守歌の背景を眺める方が、貧しかった時代に生きた日本人の実相を正しく捉えられると感じている。(※熊本県の民謡・子守歌として知られる「五木の子守唄」や「おどまかんじん」が「こまもりうた」の好例。)
本書には、全国各地で唄われてきた「わらべうた」や「子守歌」が数多く掲出されている(全258編・曲譜は268曲)。それらは、著者が昭和30年代後半から開始した採録・採譜の賜物といってよいだろう(感服)。
また、本稿の冒頭で記したような「読み方の指摘」は無いものの、単に「眠らせ唄」として掲出するだけではなく「守り子の歌」という視点も併せ持っていたことから、共感をもって頁を捲ることができた。
本書の中で散見された「守り子の歌」の典型例を引用させて頂こう。
本書を通読してみると「花折り」をテーマとした子守歌が、全国各地に散見されていることが分かる。こうした広がりもまた、街道を血流の様に旅した行商人や遊行・遊芸の民、或いはお遍路といった名も無き人々が担っていたに違いあるまい。そうした過程で、様々な地域で唄われた文句が混ざり合い、脈絡を感じさせない内容に変質していったこともまた想像に難くない。
とまれ、この歌詞に目を通せば、子を寝かしつけるための歌というよりもむしろ、子守り役を担っていた年端もゆかぬ子どもたちの悲哀や呪詛にも似た願い、そして虚ろな幻が紡がれていることが分かるはずだ。
他愛もない歌詞の中に、子守りたちの小さな嘆息を聴く。
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