【遺す物語】第四話:「違いがわかる男」からの贈り物
序:「遺す物語」について
「遺す物語」の意味は、読んで字の如し「遺す物を語る」です。
さしたる財産を持ち合わせているわけもない僕ですが、死ぬまで自分の傍に置いておこう、若しくは、息子たちに託そうと考えている物と、その後ろ側にある物語を、この「遺す物語」の中に刻んでいこうと思います。
第四話:「違いがわかる男」からの贈り物
多感な時期に経験した事は、意外に忘れることができないものだ。
この話も、今から40年以上も前に起きた出来事になるけれど、古いカラー写真のような褪せた色味を保ったまま、僕の記憶の中に収められている。
1:鬱屈の日々
話は、僕が中学2年生の頃(1982年)まで遡る。
中学1年生の夏に、東京から福島の中学校に転校した僕は、福島での生活にすっかり馴染んでいた。それは、幾人かの素晴らしい友人たちのお陰であったし、音楽と美術に素晴らしい教諭がいてくれたからでもある。
冒頭から蛇足を承知で記しておくが、他の教諭はロクでもない人間ばかりであった。彼等は半ば暴力集団であり、それぞれに特徴ある武器(英語:ツッパリから奪取したエナメルのベルト、社会:楕円の文鎮、理科:空手で鍛えた拳骨、体育:竹刀とバリカン)を所持しており、自らの保身のためだけに「躾と言う名の理不尽な暴力」を振るっていた。
そこには愛情が微塵もなかった。だから、僕は「一日も早く高校生になりたい!」とだけ願いながら中学生活をやり過ごしていたのである。
因みに、学校生活の中で相当の割合を占める部活動は、東京の頃と同じく剣道部に所属した。ところが、この剣道部は、顧問がいなくなると直ぐに花札を始めるといった体たらく振りであったから、入部して半年も経たずに三下り半を叩きつけて退部した。
そして、深く考えることなく美術部の門を叩いたのである。
2:吹奏楽部と美術部
しかし、この転部が功を奏した。
他所の中学から転任してきたばかりの美術部顧問に、版画が好きなことを伝えると、彼は自宅から本格的なエッチングの道具一式を持参し、懇切丁寧に指導してくれた。それは、刺激的で創造的な時間であった。
加えて、この部活動の変更が利に働いた点がもう1つだけあった。それは、美術室の隣に音楽室があった事である。
僕が通っていた福島の中学校は、音楽家の猪俣公章と深い繋がりがあった。彼は、この中学校に不釣り合いなくらい沢山の楽器(特に管楽器が凄かった)を寄贈していた。それが故に、吹奏楽部の活動が盛んで、言ってみれば運動部に次ぐ花形の部活になっていた。
吹奏楽部には、親友のT君を筆頭に、仲の良い友人たちが入部していたため、互いの部活動の合間を縫うように交流を深めることができた。
あの音楽室と美術室がシームレスに繋がっている空間は、当時の僕にとって校内で一番コージーな場所だったと思う。そんな根城を確保した僕は、友人たちが奏でるトランペットやホルン、フルートやピッコロの音をBGMにしながら、心静かに絵を描いたり、版画を刷ったりしていた。
3:FMレコパルの誘い
中学2年生に進級した春のとある日。
作品の製作に煮詰まっていた僕は、美術室の前の廊下でFMレコパル(以下 レコパル)を読んでいた。すると、トランペットを片手に携えたT君が「伝ちゃん、何見てるの?」と言いながらやってきた。
僕が「休憩かい?」と返すと、後に吹奏楽部の部長となるT君は「なんかさぁ、みんな疲れちゃって音が合わないから一旦やめたのよ。」と愚痴を溢しながら、僕が手にしていたレコパルを覗き込んできた。
この時、僕が何気なく開いていたページが「TVやラジオの公募・懸賞の類が掲載されていた紙面」であった事が、この出来事の発端になるのである。
レコパルを覗き込んでいたT君は、「あっ、横浜にいた時、ここに載っている石丸さんが指揮しているフィルの演奏を聴いたことあるよ。」と懐かしそうに呟いた。(彼もまた僕と同じ転勤族の子どもだった。)
「石丸さんって、あの ” 違いがわかる男 ” かい?」と僕は聞き返した。
T君は「そうそう、その人だよ。へぇ~ 石丸さんってラジオやってるのかぁ・・・ふ~ん。」と、悦に入った様な顔をしながら、僕の手からレコパルを奪い取って読み始めた。
そしてT君は、目を紙面から離さずに軽やかなトーンでこう言った。
「石丸さんのラジオ番組でモーツァルトのエッセイを募集しているみたいだね。伝ちゃん、感想文上手だからさぁ、応募してみたらいいじゃん。なんか貰えるかもよ?」と。
4:豚が木に登るのは大変なのだ
「豚もおだてりゃ木に登る」とはよく言ったものだ。
信頼するT君の軽口を真に受けた僕は、反射的に応募を決めたのである。
けれども「幼少からピアノに親しんできた程度」の中学生が会得している浅はかな知識と拙い経験では「何も書けない!」ということを早々に思い知らされたのであった。
そこで翌日、音楽の教諭に直談判して、モーツァルトの資料を借りることにした。吹奏楽部の顧問を兼任していた音楽の教諭(女性)は、僕がピアノが弾けることをT君から聞いていたこともあって好意的に対応してくれた。
しかし、彼女は「資料を貸す代わりと言ってはなんだけど、秋の合唱コンクールのメンバーに伝吉が加わってくれると助かるんだけどなぁ・・・。」と、老獪なる交換条件を出してきたのである。
一瞬「なぬ?!」と思ったのだが、原稿の提出期限が迫っていた僕は、背に腹は代えられないとばかりに応じてしまった。
彼女は僕との約束を守った。依頼した翌々日には、若年層でも読み易そうなモーツァルトの資料を精選して持参してくれた。この貸借契約を以て、僕は合唱部の臨時メンバーになることが確定したわけだけれど、僕の頭は原稿を仕上げることで一杯になっていたから、やがて訪れるであろう「合唱部の過酷な練習の日々」を想像するまでには至らなかった。
そんなこんなの紆余曲折を経て、僕はやっとの思いで書き上げた原稿用紙を石丸さんのラジオ番組宛てに送付したのであった。
しかし、急場の無謀な挑戦を完遂した充実感を味わう間もなく、衝撃の事実がT君から告げられるのである。
5:人間は忘れる生き物
原稿をポストに投函した翌日のことだ。
完成した原稿をラジオ局に送ったことをT君に告げると、彼は「そうだ!伝ちゃんに言うのを忘れてたんだけど・・・。あの日さぁ、家に帰って調べてみたら分かったんだよ。石丸さんのラジオ番組って、福島では放送していないんだってさ。」とバツが悪そうに言った。
この時の落胆ったらなかった。
丸一日失意のどん底に落とされたような気分を味わった。
とまれ、T君の告白から程なくして、僕の頭の中から「ラジオ番組に原稿を送ったという事実」と「執筆に苦闘した日々の記憶」は、実にあっさりと忘却の彼方に消え去ってしまったのである。
人間は、理不尽で悲しい出来事に遭遇すると、そこから効率よく立ち直るために忘れようとする性質があることを、僕は ” この時 ” 認識した。
6:贈り物は突然に
夏休みを直前に控えた頃・・・だったと思う。
合唱部の練習を終えて帰宅した僕に、母が「お前宛の荷物が届いているよ。」と話しながら、細長い梱包を手渡してくれた。
興味津々で梱包を解いてみると、中からギターのハードケースと似たような素材で出来た黒くて細長いケースが出てきた。
その黒いケースは軽かった。中身の存在を感じさせないくらい軽かった。
言い知れない不安を覚えながらケースの留め具を外した。そして、ゆっくりと上蓋を開けててみると、そこには美しいタクトが入っていた。
想定外の品物に呆然としながら眺めていると、コルク製のグリップに「from H . ISHIMARU」とサインされていることに気が付いた。
そこでようやく記憶が蘇ってきたのだ。
「あっ、そうだ! 石丸さんのラジオの原稿募集のヤツだ!」
一瞬にして合点がいった。
手に取ってじっくり眺めて見たら「1982年5月」という日付と共に「to Denkichi」と僕の名前が記されていた。
「このタクトは、僕に宛てて贈って下さったんだ!」
この瞬間の感激を忘れたことはない。
同梱されていたラジオ局からの手紙を読んだ。
すると、僕の原稿が放送内で読まれたということが記されていた。そして、地方の中学生から送られてきた原稿に喜んだ石丸さんが、ご自身の愛用するタクトにサインをしてプレゼントして下さったことが判明した。
この出来事の後に繋がる物語は、余りにも煩雑で、まとまりがない話に始終するので割愛させて頂こう。
ただ、指揮者から一番遠い性格をもつ少年「僕」に託されたこの美しいタクトが、僕の中学生活の印象深い場面で活躍してくれたこと(吹奏楽部の演奏会で指揮者を務めたT君や、交換条件で参加した合唱部のコンクールで指揮者の音楽教諭に使ってもらったこと。)だけは記しておきたい。
7:不完全な記憶もまたよし
ここまで色々と書いてきたけれど、結局のところ、自分で書いた作文がラジオで流れたという事実「音源」を耳にすることなく現在に至っているわけで、その点を指摘されたならば、僕は苦笑いを浮かべるしかない。
ただ、この歳になって感じるのは、記憶の中に一生答えの出ないブラックボックスがあったって良いということだ。
この美しいタクトは、僕に空想の時を与えてくれた。
「どんな風に読んでくれたのかな?」
「誰が読んでくれたのかな?」
「石丸さんは放送中にサインしてくれたのかな?」
身の丈を超えた挑戦が生んだ酩酊の時は、多感な時期の行動指針に影響を与えたばかりではなく、僕の将来に直接的かつ間接的、そして長期的に影響を与え続けたと言える。だから、僕の中に残っていたブラックボックスを埋めて余りある程の贈り物を頂戴したと感じている。
それは、まだ春冷えのする時節のことだった。
僕は、友人の他意のない思いつきに乗っかり、それを何かの導きかの如くやり遂げるという体験をした。
それは、打算にまみれた大人になる前に経験できたという点を含め、かけがえのない人生のひと時を過ごせたという実感に繋がっている。
そして、多くの人々がそうであるように、僕もまた「粗悪な大人たちに翻弄されながらも、窮地に陥る前に、素敵な大人たちによって救われた。」という経験を幾度となく重ねてきた人間として、僕自身の「大人としての有様」を問うているところなのだ。
ー 完 ー
あとがき:タクトの行く末
此度、何故このタクトの存在を記しておく気持ちになったのか?
それは、長男が赴任先の学校で吹奏楽部の顧問になった事が影響しています。凡そ音楽の世界とは無縁だった長男から ” その話 ” を聞いた時、僕は「なるほど、全ての神は平等だな。」と彼に言いました。やはり、人生の中で経験しておかねばならない事は、どこかで必ず経験することになるのですね。(神様は見逃さない。)
暫くして後に、長男から吹奏楽部の活動の様子を聞く機会がありました。
その時の彼の口ぶりから、楽しんで取り組んでいる様子だけは伝わってきました。勿論、生徒と顧問の主客転倒状態は言うまでもありませんが。驚いたことに、日常的に楽曲の楽譜を眺めたり、音源を流しているとのこと。
いやはや、立場が人を変えるとはよく言ったものです。親父が「ピアノやってみるか?ギターならどうだ?フルートなんていいぞ?」と、あれほど勧めても首を振らなかったのに・・・。(なんか悔しいんですけど。)
この様な経緯から「彼が真剣に音楽と向き合っている今だからこそ、このタクトが果たせる役割もあるのではあるまいか?」と考えるに至り、本稿を認めることにしたわけです。
最後の最後に、悩める男(長男)へ「タクトと絵筆」のあとがきに記された印象深い一節を贈りたいと思います。タクトと共にバトンタッチすることになるであろう本書の「最後の一言一句」まで読み干してもられば、親父冥利に尽きるというものです。
そんなこんなの「親父の一人語り」。
この長文駄文を最後までお読みいただき、本当に有難うございました。
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