【記憶より記録】図書館頼み 24' 10月
大掃除には未だ早いタイミングですが、ようやく気候が穏やかになってきたこともあり、夫婦で暇を見つけては自宅の手入れに勤しんでいます。というのも、我が家は父から引き継いだ古家(築40年程)ですので、住人の気遣いと手入れが必要不可欠だからです。
先日は、定期的に嫁さんが確認している屋外の排水桝の内部を清掃しました。特に、キッチンから排出される油分を含んだ排水は、桝の中で水と脂に分離し、蓄積した油脂が限界を超えると、排水不良を引き起こすのだから堪りません。(季節によっては悪臭も!)
昨今、こうした『目を背けておきたい部分』に目をつけた悪い輩が、もっともらしい社名を騙って「排水管の点検に来ました!」などと言いながら敷地内や宅内に侵入しようとするわけです。
という事で、ご自身でメンテナンスが出来ない方は、こうした飛び込みの業者に頼らず、地元の信頼できる設備屋や、ご自宅を建築した工務店から紹介して貰った専門業者などに依頼することをお勧めします。
これから年末にかけて、悪い輩の活性が更に高まっていくはずですから、隙を見せない様に警戒感を強めていきたいところですね。
以下の過去記事には、昨今暗躍している類の詐欺行為について、私自身が体験したことを綴っておりますので、何かの参考にして頂ければ幸いです。
さて、冒頭から長々とスミマセン。昨今のおぞましい状況を看過できないお節介小父さんの悪い癖だと思ってお許しあれ。
それはで、10月の「図書館頼み」に入らせて頂きます。
※先月以降、複数の本を借りてきておるのですが、従前よりも読了に時間を要するようになってしまった身ゆえ、これからは一冊に絞って備忘を記していきたいと考えております。
1:納豆の話 -文豪も愛した納豆と日本人の暮らし-
著者:石塚 修 出版:大修館書店
表紙を一瞥するやいなや手にとってしまった一冊。レコードで言えば『ジャケ買い』という奴である。
私にとっては、身近過ぎる存在の『納豆』である。
ほぼ1週間に3,4回は食べているおかず?・・・メニュー?・・・食材?・・・ご飯のお供?・・・。いやはや、納豆のことを何かに例えて言おうとすると、何れの表現もしっくりこない。
やはり『納豆は納豆』という処に落ち着くのである。
ご存知の通り、納豆の発祥については様々な説がある。
ただ、世界中の人々に愛される食べ物やアルコールの類の発祥を鑑みれば、そこには妥当性のある偶然が介在していることもまた厳然たる事実である。
こうした世界的な共通項を無視できない私は、これまで聞きかじってきた「兵糧として馬の背に積んでいた俵の中の大豆(味噌)が発酵して納豆になった。」という説に一票を投じてきた。
さわさりながら、著者が本書の冒頭で記した「むしろ発祥地などを不用意に確定しない方が納豆という食品のロマンとしての愉しみが広がるのではないか。」という意見に、深い共感を覚えてしまったのである。それ故、結論めいた事柄を本書に求める必要性が無くなり、身構えることなく読書を楽しむことができたのだ。
本書の内容は、いたって明解だ。
古書の類や、和歌・俳句・川柳、そして名作・名文の中で描かれた『納豆或いは納豆にまつわる情景』を拾い上げ、情緒豊かな著者の客観と主観に富んだ解説を交えた物語に仕立て上げている。著者が柔らかく提示してくれた幾つかの納豆物語は、私が知る食文化の領域の中に拡散していた点と点を繋げてくれるような役割を果たしてくれたように思う。
著者の勤勉さと拘りは随所に見られたが、名人上手・文豪が紡いだ歌や文章の中に登場する納豆の種類を同定(糸引き納豆 or 浜納豆)しようと試みている点に、ある種の可笑しみを感じてしまった。
また、古い時代を生きた人々の多くが、納豆を『納豆汁』として食していたという事実には驚かされた。(私にとっては想定外だった。)
著者が取り上げた文人の中には、私が慣れ親しんできた方々のご芳名(永井荷風・夢野久作・国木田独歩・泉鏡花・寺田寅彦・斎藤茂吉・野村胡堂など)が連ねられていたが、その中でも特に私を喜ばせた一項があった。長くなるのを承知で備忘しておこうと思う。
本書では、漱石の前期三部作のひとつ『門』に登場する納豆の情景を紹介している。著者が抽出した漱石の一文は、私が漱石の文章に親しむようになっていった過程で欠くことのできない『漱石的な描写・表現』であったため、著者との精神的な邂逅を感じさせてくれた。
とかく、漱石の前期三部作を軽んじる『自称文学好き』も少なくないと聞く。しかし、良いものは良いのである。
「〜瓦を閉ざす霜の色を連想せしめた。」などという表現は、凡庸な作家の筆から生まれるものではないだろう。それは、日々の生活の中に潜む匙些末な存在を敏感に察知し、あらゆる表現に対して独自の見立てを持ち、そして言葉を模索できる人物でなければ紡げないと思う。
これ以上話が逸れてしまわないうちにPCの前から離れた方がよさそうだ。
何はともあれ、名も無き市井の人々のみならず、酔狂な歌人や賢明な文豪たちもまた納豆を食してきたということである。
この事実は、数多の文人と私の距離を近づけてくれた。そして、腐敗と発酵の異なりを解明できなかった時代にあって、納豆を『食べられるもの』として扱ってきた古の人々に対する想いを強くさせてくれたのである。
伝吉小父がお薦めする『納豆本』
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