19歳から26歳の挑戦と思考の記録と結論 終着・
小学校や中学校の文集や自己紹介で「将来の夢は?」と聞かれることが何度かあった。同級生たちは各々なりたい職業を書いていたが、自分はこれといってなりたいものがなかった。別に周りの子たちもどれくらい本気で書いていたかはしらないが、自分は本当に何も浮かばなかった。そんな自分が迷った末に毎回書くのは「お金持ち」だった。
今思えばそれは職業ではないし、そもそも本当にお金持ちになりたかったのかといえば違う気もするが、空欄にするわけにはいかず、毎回お金持ちと書いた。
そんな事を忘れ、だらだらと目標もなく生きてきた自分にも高校三年になり進路選択のタイミングがきた。就職という選択肢はなく、大学か専門学校に行こうと考えたが、ここでも自分のやりたい事は見つからなかった。つまり専門学校という選択肢はここで消え去ったのである。そうなると残りは大学だが、ここでもどの学部に行くかで悩んでいた。文系だった自分にとって理系の選択肢はなく、文系の学部を調べた。その結果興味ありそうな学部は二つあり、それが「文学部」「心理学部」だった。ただこれは他の学部と比べた相対的な結果であり、何が何でもやりたいというわけではなかった。本が好きだからという理由で「文学部」を選び、メンタリストってかっこいい、人の心を操りたいという理由で「心理学部」を選んだ。正直に白状すると思春期な自分にとって、可愛い女の子と学生生活を送れればそれでいいやと思っていた。「文学部」「心理学部」なら興味もあるし、女子の比率も高そうなので、その時の自分には最善の選択肢だった。
そんな事で自分の希望進路を親に伝えると予想外の返答が返ってきた。
「『文学部』『心理学部』なんかに入って就職どうするの?。そんな将来性のない学部より、こっちに行きなさい」
そんな親から言い渡されたのは医療系の専門学校だった。その専門学校は四年生で女子の比率は高った。もちろん私自身親に反発し、何度も話し合いという口論をやったが、結局お金を出すのは親であり、奨学金を借りてまで「文学部」「心理学部」に行きかったわけではなかったのだ。最終的な結論として、私は親の言いなりに専門学校に入学することが決まったのだった。
実際に医療系の専門学校に入学した人なら知っていると思うが、勉強の量や休日の数は大学とはけた違いだった。まず勉強量が膨大であり、毎年40中5人くらいは留年していた。学校自体も夏休み、春休みなどが大学よりするなく、学園祭、サークルなどもなかった。自分が想像していた学生生活とはかけ離れていたのである。それでも勉強を頑張れば良かったのだが、もともとやる気などなかった私は学校をさぼり毎日遊び歩いていた。酒を飲み、高校時代の友達と遊び堕落していった。そんな自分に待ち受ける未来は当然良いものではなく、あっけなく留年が決まった。
そのまま留年して心を入れ替えて勉強するという選択肢もあったのだろうが、プライドともう勉強をやりたくないという怠惰が退学を選択させた。因果応報、まさに身から出た錆である。その後も自分は怠惰な生活を続け、やっている事は飲食店のアルバイトのみだった。詳細を書くと長引いてしまいそうなので割愛するが、何回かの親との話し合いと制約を結ばされ、自分は大学に通いなおす事になった。その時すでに親からは匙を投げられており、好きな大学に行けばいいと言われた。きっと専門学校を進めたときは、息子がここまでダメなやつとは思っていなかったのだろう。
選択する自由を与えられた自分は、再び学部を選ぶことになったのが、私自身の心情に変化があった。私の中にとんでもない量の劣等感が生産されていた。専門時代のクラスメイトからは馬鹿にされ、周りの同年代は就職しているか、学生生活を送っている。それなのに自分はフリーターであり、周りとの接触を避けるようになった。そしてその劣等感から、「自分は何者かになって周りを見返してやりたい」と思った。それが自分が挑戦を志す理由だった。そんな風に変化した自分は、読む本が小説から自己啓発本に変わった。まさに意識高い系の誕生である。そんな意識高いフリーターにとって大学の学部選びなどどうでも良かった。自分は社長になるか、小説家になる人間だから大学なんてどこだっていいと考えていた。社長か小説家に本気でなるなら、大学など行かなければいいのだが、自分に甘い私は、そんな選択を取ろうとも思わなかった。
さて実際に大学を選ぶにあたって、絶対に避けなくてはならない事があった。それが自分の知り合いがいる大学である。プライドだけ無駄に高い自分は、知り合いに落ちぶれた姿を見せたくなかったのだ。そんな事で選んだ大学は、実家から片道3時間かかる大学を選び、無事に合格した。学部は人文学部で、「文学部」でも「心理学部」でもなかった。
4月になり晴れて大学生になった私だが、サークルに入ることもなければ友達も作る事もなかった。プライドと劣等感があった私は仲良くなって、年齢がバレることを恐れたのである。大学というのはボッチでも意外と問題なく、大変なのは必修くらいだった。中でも大変なのはグループワークの発表で、みんながグループでやっている中、私は一人で資料を作成し、みんなの前で一人で発表した。この経験をしたおかげで、一人でいることに特に恥を感じることが少なくなった。
大学生活はそんなことでずっと一人でいた。意識高い系なのは変わっておらず、行動もせずただ自己啓発本を読んでいた。大学三年の夏休みインターンに行くことになった。もともと行く気などなかったが、父親から行けと言われて、反抗できずに行くことになった。インターンの期間は二週間で悩んだ結果一つのIT企業に行くことになった。そこでは営業の付き添いや、テレアポする企業のリストアップをしたが、意識高い系であり何の能力もない自分は、何の活躍もできなかった。そして精神的にも二週間のインターンは辛く本格的に働きたくないと思った。そこで初めて小説を執筆するという行動を起こしたのである。実際に執筆をしてみると思っているよりも難しく、自分の文章は稚拙だった。読んでいるときは感じなかったが、いざ執筆すると物書きがどれだけ大変かを痛感されられた。応募する賞を決めそれに向けて執筆していたが、書いている途中から嫌気がさしてきて、良い物語を書くよりも書き終えることが目標になってしまった。書き終える事はできたものの中身はひどいもので、今思えば入賞できるレベルでは到底なかった。結果として私の処女作は一次すら突破できなかった。それをきっかけに執筆に力を入れるということはなく、自分は執筆するのが好きじゃない、小説家に向いていないと思うようになった。そして再び意識高い系に戻り、就活の時期がやってきたのである。
大学4年になり就活が始まると再び「やりたい事」に悩まされることになった。悩んだところで答えが出るはずもなく、就活は給料が低くても土日祝が休みで、そんなに大変そうでなければどこでも良いという事になった。企業説明に行く会社の業種はバラバラで電気、自動車、建築、IT、金融とまさにバイキング状態だった。結局就活は三ヶ月ほどで終わり、2社落ちて、1社内定が出て、二次面接までいっていた企業2社を辞退した。今務めているIT会社が、まさにその内定の会社である。私は内心歓喜していた。ITなら今後将来性もありそうだし、なによりプログラミングの知識を得られれば社長だって夢じゃないし、フリーランスだってある。そんな希望で溢れていた。新型コロナウイルスが流行り始めたのが大学四年の2月頃で、就職まで残り二ヶ月ということだった。コロナのおかげで彼女との卒業旅行が無くなり、その旅行に行くはずだった金で22万円のMacbook Proを買った。入社する前に少しでもプログラミングの知識をつけようと考えての行動だった。YouTubeやネットで調べてHTMLとCSSという言語から勉強を始めた。WEBデザインの本も買い、ワクワクしながらプログラミングを開始した。本に書いてある通りにコードを書き、ただ参考書通りに進めた。ただそれを始めても、私がプログラミングにハマる事はなかった。ただ参考書を書き写すだけなので特に楽しい事はなく、まぁこんなものかと思っていた。ただ入社すればきっと楽しくなるだろうと、部屋のインテリアになってしまったMacbookをよそに自分は最後の学生生活を楽しんでいた。
実際に4月になり、ついに社会人になった。とはいってもコロナの影響で会社に行くことはなく、自宅待機という事になった。今ならばコロナ前提での研修などが用意されているが、二年前はまだコロナに対応できる状態ではなく、リモート用のパソコンも研修資料も用意されていなかった。結局会社から「基本情報技術者」の参考書が自宅に郵送され、それを勉強してくれという指示だけだった。やる気に満ち溢れた気持ちは失われ、座学が嫌いだった自分はまったく勉強なんてしなかった。その時ちょうどswitchのあつ森が発売されており、それをひたすらやっていた。GWが終わってもテレワークが続き、あつ森に飽き始めた五月中旬、一日だけ出社する日があった。記念すべき初入社である。緊張しながらも会社へ行き会議室に通された。そこである程度の挨拶を交わし、初めて本格的な課題が与えられた。それはHTML、CSSで自分の自己紹介サイトを作ってこいというものだった。経験者半分と未経験半分の割合だった新入社員達だったが、未経験者勢は訳も分からないままサイトを作成することになった。それも出社してではなく、自宅での作成ということで未経験者たちはかなり苦労した。今考えればそんな投げやりにやるなんて無責任と思うが、まさに「会社は自分を育ててくれない」を体験した場面だった。HTML、CSSに少しだけ触れていた私はなんとかサイトを作り終えて、再びあつ森に熱中したのだった。
6月になると毎日出社することになり、本格的な社会人デビューを果たした。プログラミングの研修も始まり、自分と同じフロアには、自分を含めた4人の新人がいた。ちょうど経験者と未経験者の2対2で同期はまさにライバルだった。実際に研修が始まると1週間も持たずして、プログラミングに挫折していた。知識も経験も何もなく、何が分からないかも分からない状態だった。経験者たちには後れを取り、最初にあったやる気は2週間で0になった。本来2ヶ月かける研修を1ヶ月でやった私はほとんど知識がないままプロジェクトに配属された。そこからが地獄の始まりだった。
私が配属されたプロジェクトは一番小さく一人しかいなかった。つまりその人と1対1という状況が作られたのである。その人は29歳女性の7年目であり、私は安心した。同棲よりも異性のほうが質問しやすいし、何より年もそこまで離れていたわけではない。自分が成長する環境としては悪いものではないように思えた。
ところがその女性社員との相性は最悪だった。私が理解が遅いのも原因だと思うが、質問する度に大きなため息を漏らされ、何度も怒られた。先輩が何人かいれば、その人に聞かなくても良いのだが、残念なことに逃げ道はなかった。プロジェクトに参加してから2ヶ月ほど経つと、私の心は粉々に粉砕され、プログラミングなんてやりたくないと思ってしまった。その瞬間、意識高い系としても死んでしまい、とにかく働きたくないと強く思うようになった。プログラミングから逃げるため、さまざまな金になりそうなことをやった。小説を書く、ブログ、YouTube、ランサーズ、とにかくネットで調べて、今できそうな副業をかたっぱしからやっていった。しかしどれも長続きしない。継続できないという事は、結果が出ないという事だった。当たり前だが「やりたくない事をやらないために、やりたくない事をやりたくない」という状況だったのである。何の成果も得られないまま月日は流れて、社会人として2年目になった。その頃になると劣等感とちゃんと向き合うようになってきて、自己肯定感は相変わらず低いままだが、先輩に何か言われても無心で聞くスキルを身に着けていた。さらに先輩はテレワークになっており、チャットでのコミュニケーションがほとんどで、対面で会うのは水曜日だけだった。先輩から評価の低い自分は、当然その上の上司から評価が低く、7月から新しいプロジェクトに移動になった。分かりやすくいうと、無能でもできる作業があるプロジェクトに移動になったのである。
7月になり、大した別れの挨拶もなくプロジェクトの移動をした。その頃には同期は一人辞めていて、一人は鬱病を理由にプロジェクト移動をしていた。同じフロアにいた4人のうち、まともに働けているのは私を含めて2人であり、私は無能だったので、本当の意味でまともなのは1人だけだった。会社からしたらまさに最悪の世代だろう。そんなこんなで移動になった私は振られた仕事を、ただダラダラと片付けるだけだった。上司も私が無能だと始めから分かっていたのだろう、簡単な仕事しか振られなかった。そんな辛くもないが、やりがいもない日常の中で私は考えていた。
「自分にとっての幸せとはなんなのだろう」
暇な時間を過ごしている分、余計な事を考える事が増えた結果の疑問だった。そこで私は今までの人生を振り返り、自分のなりたい将来の姿、やりたい事、欲しい事をただひたすら考えることにした。社会人でありながら実家暮らしの自分は多少お金に余裕があった。とにかく気になっているものを片っ端から経験していき、飽きたらすぐに辞めた。もし自分に300億あったら何をするだろうと考えた。仕事を辞めて、女遊びを飽きるまでやって、世界一周する。女遊びに飽きたら、好きな彼女と結婚して、子供を三人作り、庭が広い田舎で暮らす。つまらないと思われるかもしれないが、そのくらいしか思い浮かばなかった。もちろんもっと細かいものもあったが、それは3ヶ月もかからないうちに体験でき、すぐに飽きてしまった。ちょうど車の車検という事もあり、新車をローンで買った。10万円以下の腕時計を何本か買い、自分は丸の形が好きではなく、スクエア型の腕時計が好きという事にも気が付いた。マッチングアプリを初めて、何人かと肉体関係を持ち、国内だが何回か旅行にもいった。それでも自分の心が満足することがなく、残りのやりたい事が世界一周くらいしかなくなってしまった。もう一つの願いとして、仕事を辞めたいというものがあったが、それは金銭的にも実現できそうにはなかった。
私はまさに八方塞がりという状態だった。仮に世界一周を実現しても、自分が満足できるとは思えなかったし、それを実現してしまったら何も楽しみに生きていけばいいか分からなかった。
そこで私はある事に気が付いた。「私自身、やりたい事なんて大して無く、ただ仕事をやりたくない」だけなのではないかという事を。そしてそれは考えれば考えるほど核心に変わっていった。
その事実に気付いた私が次に行動したのは、仕事を辞めるためにはどうしたらいいいかという事だった。この答えは簡単で、お金があれば仕事を辞められるだった。仕事を辞めるためには億単位の金が必要だった。結婚願望があり、子供も欲しい私は、ざっくりと3億あったらいけるだろと思っていた。つまりブログやせどりのようなものではなく、もっと大きな金を稼げる何かを探し始めた。そんなうまい話があるわけもなく、思いついたのは3点だった。
①WEBサービスを作る、②小説を書く、③宝くじを当てる。
自分の貧弱な脳みそではこの程度しか思い浮かばなかった。
思い立ったが吉日という言葉があるように、その日のうちにWEBサービスのアイディアを出し、宝くじを1万円分買った。宝くじは当然外れて、WEBサービス作りに力を注いだ。
実際にWEBサービス作りに励もうとするも、そこには大きな壁が存在していた。知識不足という壁である。入社してから簡単な作業しかしてこなかった自分は、WEBサービスを作れるほどの知識を持ち合わせていなかったのだ。ネットで調べてなんとかやってはいたが、そのスピードは亀のようだった。小説も同時並行でやってはいたものの、読書のほとんどを自己啓発本に捧げてきた私にとって書きたいストーリーなどなくなっていた。パソコンの前に座っても何も出てこない。何も書きたいものがない。そんな状態だった。またしても自分は八方塞がりな状況に追い込まれた。
そうして鈍足なWEBサービス作り、真っ白の執筆活動のまま10月になった。自分が仕事を辞めるために必要なのはざっくり3億円で、選択肢は他に増えそうにもない。自分のモチベーションを上げるためにもう一度、自分のなりたい姿、目標、やりたい事を自問してみた。300億あったら何をやるだろう。
①仕事を辞める②世界一周する③好きな彼女と結婚して、子供を三人作り、庭が広い田舎で暮らす。
どれだけ考えても結局これくらいしか見当たらず、他には何も見当たらなかった。ここからさらに自分の実現したい事①~③を分解してみた。
①仕事を辞める。→なぜ辞めたいのか →特にやりがいもないし、楽しくないし、幸せではないから。
②世界一周する →特別達成したいわけではないが、死ぬまでに一回くらいは一周しておくかと思ったから。特に南の島に行ってみたい。
③好きな彼女と結婚して、子供を三人作り、庭が広い田舎で暮らす。 →子だくさんのほうが大変だけど賑やかで楽しそうだし、自分も田舎育ちで田舎のほうがのびのびできる。
こうして自分の理想を分解している時に、ある事に気が付いた。そもそも働きたくない理由って、他の会社に転職しても同じなのだろうかと。
つまりやりがいや達成感、幸福感について考えたとき、他の職場に行けばこれを得られるのではないだろうかと考えた。もちろんその可能性があるだけで、もっと悪くなる可能性もある。しかし一度も転職しないまま決めつけるのは違う気がした。そこで自分は3億稼ぐという選択肢のほかに、転職するという選択肢を得た。
その結果、①転職するor三億手にれる②世界一周する③好きな彼女と結婚して、子供を三人作り、庭が広い田舎で暮らす。
という結果になった。そしてWEBサービス作り、執筆活動のほかに、どこの業界・どんな職種に転職するか考えるが追加された。
そうして転職先を考えるにあたって、執筆活動とWEBサービス作りの熱量はどんどん冷めていった。先にも書いた通り、「やりたくない事をやらないために、やりたくない事をやりたくない」が障害になっていた。そもそも執筆もプログラミングも過去に挫折している。大金を稼いで仕事を辞めるために、それら楽しくない事をやるモチベーションは湧いてこなかった。飽き性であり、根性がなく、見切りをつけるのが早いダメな私は、成功から最も遠い位置にいた。そもそもそんな根性と持続力があったら専門学校を辞めてないし、社会人として立派に労働しただろう。そんな状況に気付いた私は少し自分に嫌気がさしたものの、やりたくないならしゃーないと、WEBサービス作りと執筆を諦めたのだった。社会人2年目のもう少しで終わる2月のことだった。そして「自分は定年まで仕事をすることになる」という事実を受け入た。そうなると自分の理想像は少し変化することになる。
①仕事において給料や内容に不満がない状態にいる。
②世界一周する。
③好きな彼女と結婚して、子供を三人作り、庭が広い田舎で暮らす。
こんな感じだ。そのために必要なのはまずは理想の職場で、そのためには転職活動だった。なるべく失敗したくない自分はとにかく業種と職種を絞る事にした。3月末の現在、絞れはしてきたものの、まだ完全に「これがやりたい!」というものが見つかっていない。それでも来月から社会人3年目にもなるので、来年度には転職しようと思っている。2年も今の職場を続ければ十分だろう。ダメな私にとっては頑張ったほうだ。
そうして過去を振り返った事で時は現在に戻る。正確には昨日だが、一つの区切りがついた。それは意識高い系である自分との区切りだ。専門学校を退学になった19歳から今年の26歳まで私は何者かになろうと、社会的な成功を収めようと行動してきた。失敗しかしてこなかったが、それでも色々な事を体験し、学びを得た。まずなぜ何者かになろうとしたかだが、これは自分が普通に学校生活を送り、普通に就職をするというレールから外れてしまった故の、劣等感からきたものだろう。普通になれないのなら、その普通の連中より上に行って、そいつらを見返したいという気持ちからだ。○○で成功したい。○○のために社会を良くしたい。○○のようになりたい。そんな志は一切なかった私が成功したいと思ったのは、劣等感からの解放という理由からだったのだ。
そして今回の記事を書こうとしたきっかけにもなったのだが、もう一度自分が達成したい理想①~③を見てみた。そこで出した結論はどれも「普通の人生」で達成できるものだった。普通に就職して、結婚して、新婚旅行とかで海外に行って、子供を産んで田舎に住む。多少の規模の縮小はあれ、どれもその辺にいる人が実現できるものだった。さんざん金と時間をかけて探したなりたい理想の自分像が「普通の人」というわけだ。こんな滑稽な話があるだろうか。今までの努力や挑戦は何だったのだろう。ただ普通の人生が送れればそれで満足だったのだ。その結論に気付くまで、どれだけ回り道をしただろう。歴史にifは禁物だが、もし自分が普通に大学に通い、普通に就職して、そこでうまくやっていたら、自己啓発を読んで意識高くなることも、執筆やプログラミングをやることもなかったというわけだ。ただ普通から仲間外れにされた人間が、普通に所属する人々を見返すために、なりたくもない「成功者」を目指した。ただ結局そいつは、普通になりたかっただけの無力で愚かで怠け者だったのだ。私が目指すべき道は「成功者」でもなく、「何者」でもない。普通のその辺にいる、幸せなサラリーマンだったのだ。
さて、ここまでの長文を読んでいただきありがとうございます。自伝本のようなものになってしまいましたが、なるべく簡潔に書いたつもりです。他にも恋話とか、癌で手術して一週間手術したこととか、書きたい事は山ほどありましたがなるべく寄り道しないように気を付けました。
最後に「成功者」「何者か」になるために行動した19歳~26歳の現在で、何を得て、何を失ったかをまとめたいと思います。
●得たもの
・行動できるようになった
・色々な事に挑戦した体験(詳細については別の記事に書いてあります)
・自分の幸せがどういう状態が分かっているから迷う事はない
・継続する事、成功する事の難しさを知った
・劣等感(これは持ってても嬉しくはない)
・人の弱さや失敗を受け入れる寛大さ
●失ったもの
・金→貯金は400円しかなく、車のローンが残った
・時間→もっと有意義に人生を過ごせた
・自分に対する自信(自己肯定感)
もっと考えれば色々出てはきそうですが、とりあえず今はこんなものでしょう。人生に1つ区切りがついた記念として、この記事を執筆しました。私のような人が1人でも納得、共感、気付きを得てくれたら嬉しいです。ご愛読ありがとうございました。
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