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【在宅つまみテク】料理下手なら時間を使えばいいじゃない(3ステップに3日かけるスーチカー)

なんだか自粛生活中に季節が変わってしまった感じですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
東京都が緊急事態宣言を解除してちょうど3週間。街には人通りが復活してきて、我が家の小学生&幼稚園児も本日から給食ありの時間割に変わりました。
解除後2週間以上が経過し、新規感染者数も下がり始めてきたのかなーと思いきや、昨日は東京都で47人の感染報告があり、忖度もしなけりゃ空気も読まないウィルスの恐ろしさを覚えた次第です。数字から何を読み解くのか、行政の判断とは別に、医学的・科学的判断と、そして生活の主体である自分自身の(感情込みの)判断も、すべて等しく尊重しながら考える必要があるんでしょう。

在宅飲酒時代は続く…

いまやパブリックエネミー・ナンバーワンの如く記者会見等で連呼される「夜の街」についてですが、そもそも、子どもを小学校に通わせ、近居の祖父母と頻繁に会う我が家にしてみれば、小学校や幼稚園の再開というのは濃厚接触の容認とほぼほぼ同義です。
テンション上がったときの子どもたちの接触は明らかにキャバクラ以上なんじゃないかと思うのですが、「夜の街」だけが感染源扱いなのは素朴に不思議です。

個人的には様々な事情から学校再開に賛成の立場を取っていますが、しかし学校に子どもを通わせる保護者が肝に銘じておかなければならないのは、「学校再開は公教育の底抜け防止のためであって、感染症リスクが低いから再開されたわけではない」ということです。夜の街が感染源として集中砲火を浴びれば、その分学校の感染リスクが下がるというわけでもないと思いますので、そこんところ雰囲気に流されたくないな、と思ったりしました。

というわけで、学校通学に気をつけつつ、居酒屋に行くことにも気をつける必要がありますので、引き続き、在宅飲酒a.k.a.テレドランクは続く感じです。

調理技術がないなら、時間を味方につける

社会状況も変わりませんが、私自身の料理の腕前も一向に上がりません。前回は「和えるだけ」のツボニラと野蒜味噌を紹介しましたが、今回もほとんど「塗り込む」くらいしか調理工程がありません。

多くの料理下手にとって、もっとも心強い調理道具は「時間」です。ぬか漬け然り、味噌然り、寝かせるだけで美味しくなるものであれば、居酒屋レベルのおつまみにも挑めるかもしれない。

そんな願いを胸に、今回も在宅つまみを作っております。

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たった3ステップに3日かける! ほっとくスーチカー

<材料>
・豚もも肉(塊)__400グラムくらい
・塩__大さじ1か2(適量)

<調理用具>
・まな板
・ジップロック系の袋
・鍋

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<手順>
1.豚の塊肉に塩をまぶし、手でごしごし塗り込んでいく。表裏とサイド、6面満遍なく。

2.ジップロックに入れて冷蔵庫に放置。3日くらいそのままにしておく。水が出てくるので、悪くなるのが気になる人は、時折捨てておくといいかも。
 3日待っている間に、映画『おもひでぽろぽろ』を見返して、原作漫画と、ジブリの教科書シリーズの『おもひでぽろぽろ』を読む。昔からこの映画が好きなんだけれども、観るたび、主人公タエ子の怖さに震えてたりする。人当たりよく、いつも快活に話す27歳の女性が、唐突に思い出してしまう小学5年生の頃の記憶。そのひとつひとつは微笑ましかったり、少し悲しかったりするのだけれども、ずっと観ているうちに、これは27歳のタエ子の恨みつらみがへばり付いた思い出であることに気づく。親や姉たちに向けられた恨み節もあれば、より広い社会に向けられた憤りもあるし、あるいはどうしようもない理不尽への哀しみや、自己嫌悪も混ざっていて、結構苦しい話。子どもの頃に感じた無力感のひとつひとつが、暗く深く、一見快活なお嬢さんのうちに沈殿している。「ひとつひとつは他愛ない、しかし(だからこそ)苦しい話」に、映像の力で深いカタルシスを与えているこの映画が、めちゃくちゃリッチで好きだったりする。
 ジブリ作品を順繰りに解説していく文春ジブリ文庫「ジブリの教科書」シリーズは、本当にいろいろな角度から作品を読めるようになっていて面白い。おそらく、『おもひでぽろぽろ』といえば、27歳のヒロインに深々と刻みつけられた顔の皺だと思うけど、この本を読むと、実際にこの映画は、顔の皺をどう描くのかを作画上のテーマにしていることがよくわかる。
 実際には、あれはほうれい線ではなく、人間の顔を写実的に描こうとしたら避けては通れない「頬骨の隆起」を示す線であって、これをどのようにアニメーションのなかに溶け込ませるかの試行錯誤が、そのまんま、この映画全体のテーマになっている。
 ジブリの教科書シリーズの末尾には、大塚英志が作品の解題を入れているんだけれども、大塚はやっぱり、あの頬骨の線について、受け手としての感情移入のしづらさを指摘する。安易な感情移入のしづらさこそが、主観的な思い出を巡る話を担保することとなり、それは「ノスタルジー」とか「レトロ」とか呼んで社会全体で懐かしさを共有する態度とは本質的に異なる、って言っていて、なるほどなあと思ったりする。大塚はここから、高畑作品における「救われない女性たち」の系譜を辿るんだけれども、その見立てについては納得すると同時に、やっぱり『おもひでぽろぽろ』においては、タエ子が救われていると見ることもできるだろうと思ってしまう。というのも、自分はあの頬骨の線をほうれい線と読み違えたまま、しかしそれでも、いやだからこそ、感情移入してしまったところがあるからだ。
 原作漫画には、27歳のタエ子は登場しない。山形にベニバナを摘み取りに行く27歳のタエ子は、完全に映画オリジナルの脚本で、原作は小学5年生の思い出エピソードしか描かれていない。ただ、映画化に際してエピソード自体が改変されることはほとんどなく、むしろその忠実かつ精巧な動画化に驚くんだけれども、しかし、ごくわずかの改変に注目したときに、あっ!と気づくことがある。
 原作漫画には、たしかに27歳のタエ子は登場しない。しかし、おそらくは27歳よりもさらに「大人になったタエ子」が登場している。それは、映画のような声や顔を持った登場人物ではなくて、語り手のナレーションとして、さりげなく物語全体を俯瞰する。この語り手が、なぜ27歳よりもさらに大人だと思ったかというと、思い出の恨みつらみ度合いが、少しだけマイルドになっているからだ。
 映画『おもひでぽろぽろ』、タエ子が父にビンタされるシーンはとても印象的だった。この父の理不尽さは、まさに子どもだけが発見できるものであり、大人だったら、この出来事をなんとか理解の範疇に収めようとしてしまう。原作漫画においては、「父がタエ子の頬を張った理由」にナレーションで言及していて、答えらしきものを提示する。それが解釈として正解かどうかはわからないけれど、そこに無理やり納得を試みるという態度自体は、大人のそれだと思う。しかし、映画のタエ子27歳は、この話を笑顔で語りながら「なぜぶたれたのかわからない」と言う。おそらく本当にわからないのだと思う。なぜなら、彼女には頬骨の線、いや、顔の皺が深々と刻まれていて、その皺のひとつひとつに、暗く湿った恨みつらみという闇が深く沈殿しているから。
 たしかにあの皺は、記号表現からの脱出を目指すために描きこまれた皺なんだけれども、作品のなかで再び、というか新たに、「老い」とは別の意味を担わされてしまっているのかもしれない。この顔の皺の恐ろしさは、北野武より早かったと思う。

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3.3日くらい経ったら冷蔵庫から出して、塩抜き作業をします。沸騰した湯で1時間くらい茹でれば出来上がり。焼酎&泡盛系はもちろん、赤ワインにもめっちゃ合う。豚肉の臭みが気になる人は、長ネギの青い部分(容量外)等といっしょに茹でるといいですよ。

※ちなみに1.の工程で塩を塗り込み過ぎてしまっても、3.の塩抜き作業で塩気の調整ができます。出来上がりを味見してみて、まだ塩気が強かったら、再び茹でればいいんです。ご安心を。

人の声が電化するオンライン飲み会

コロナ禍が、オンライン飲みの契機になったという話をよく聞きますが、居酒屋飲みとオンライン飲みのもっとも異なる点は、やはり肉声か否かということだと思います。

声をいかに響かせるかという近代の欲望は、コンサートホールを生み出し、アンプリファイドなPA環境を生み出し、録音再生技術を生み出しました。音楽を享受できる美的時間をコンサートホールもしくは音楽ソフトのなかに閉じ込め、かわりに日常空間からは音楽を追い出してきたという歴史を思い出します。在宅ワーク中、ふいに聞こえてきたどこかのピアノ練習に耳を奪われても、すぐさま我にかえって仕事に集中しなければいけない。「効率化」や「生産性向上」のためには、日常空間から、美を締め出さなければならないーー。

いわゆる居酒屋というのは、あらゆる境界を曖昧にする空間だったんだろうと思います。仕事上の関係やら友人関係やら、ある種の固定化されている関係を解きほぐして、別の関係を再構築するきっかけを作る役割も担っていたと思います。
今日、アンプリファイされない人の声を同時にたくさん聞きたいと思ったら、居酒屋に行くくらいしか方法は残されていません。居酒屋だけが、アンプリファイされない、原始的な人の声を介したコミュニケーションを集めていました。

オンライン飲み会をやったことがある方ならわかると思うんですが、大人数の参加でも、そこで共有される話題はひとつです。居酒屋であれば、飲み会の場には同時多発的に多くの話題が錯綜し、複数の会話が生まれることもあったと思うのですが、オンラインの場合はまだそこまでできません。多くの声が、まったく平等のボリュームでたくさん聞こえてくると、話題が錯綜してしまうんです。

居酒屋が集う「夜の街」は、肉声が届く範囲で成り立つ街のことだと思います。もちろんそこは、コンサートホールのような、ひとつの声に全員が集中的に耳を傾けるような場所ではありません。好き勝手に、各々が自分の空間を同時多発させる場所です。
「夜の街」に敵意を向けることと、非効率で非生産的なものを忌避する態度は、なるほど非常に相性がいいだろうなと思ったりします。

私には「よく行く店」というのはあっても、自分のなかで「行きつけの店」と呼べるようなお店はなかなかないのですが、とある歌舞伎町のもつ焼き屋さんに関しては、自分的に行きつけにさせてもらってます。唯一に近いかもしんないです。人の回転は早いですが、めちゃくちゃ狭くて混み合い、おっさんがめっちゃでかい声で注文しているような店です。私はここだからこそ、安心してひとりで黙って飲めるのですが、もうめっきり行っていません。かれこれ10年くらいは通っているお店です。このお店に頑張って生き延びてもらうことは、日常生活のなかに闖入した美的時間を守ることなんじゃないだろうか、とか、そういうことを思っちゃうくらいには心配しております。

文&写真:安藤賛

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