死ぬ事、怖いものは怖い。だから今を生きねばを再実感

※何のオチもなく、ただいま考えている事を文字にしただけ。

ガンのステージが低くても、がんはがんで何があるが分からない現実を知ってしまった以上、死ぬの怖いもんは怖い。
再発もしてないし、治療も手術だけだし、リスクは他のステージの人と比べて低いかもしれないけど、怖いもんは、怖い。

そんなん言ったら自分の方が大変な状況だわ、ステージが上なんだわ、こんな治療してるんだわ…と他の患者の方に言われるかもしれないけど、私は怖いもんは怖いので、比べられても私にとっては怖いは変わらない。

これを弱いと捉えて、自分は落ち着いて心が動揺しなかったみたいなことを言われる事があるけど、これも同じで私は怖いので知らんがなとしか言いようがない。

なぜか幼稚園の頃、夜中に突然大号泣して「死にたくない」と言いながらないていたらしい。

20歳のころ、芝居が好きでたまたま見た遊機会の舞台で「ラ・ヴィータ」というもうすぐ死にゆく老人の話と「今がすべてだ、今がね」のセリフが忘れられなくて、それから死ぬとは、生きるとはを自分なりに考えてはいた。
色々な作品、死にゆく人の言葉、ブログ、書籍、映像作品。
色々なものを見た。そして自分なりにどう生きれば、その時に後悔が無いか、を考えた。

…が、実感を伴わない「死」は所詮他人事。
どれだけ自分が想像しても、「結局自分は死なない」「死はまだ遠く先にあるものだ」と思っていたのだ。

それを実感させられたのが3年前のガンの可能性がある事を知ったタイミング。
再検査から、専門病院に行くまでの1か月半くらいだったかな、2か月かな。

夜は寝られなくなり、ラジオを付けてとにかく何かの気配が無いと寝られなくなった。寝ても3時間くらいで目が覚めて、また寝ても1時間、2時間くらいで目が覚めて、1時間くらい起きて…の繰り返し。

今まで自分が考えていた死は全く別物だった。
急にきて、急にすべてが変わり、急に終わる。
もしかしたら来年自分はいないかもしれない(まだガンの知識0だったのでいづれ必ず死ぬと思ってた)

それが突然、ある日突き付けられた。
結果ステージ0だったけど、自分は死ぬ事を自分ごとをして初めてとらえられて、少しだけ見方が変わった。

まずもうすぐ40歳だけど、家族と一緒にいたくてまず家に帰ってきた。
あと幸いな事にコロナ前から割とどこでも仕事しても良かったので、もうその時点で家で仕事をして、打ち合わせや会議の時だけ出て、それが終われば家に帰って仕事をした。
だから朝・昼・時にはおやつ・夜ごはん、朝食後のコーヒーや、夕食後のお茶の時間、ほぼ毎日一緒に食卓を囲んだ。
多分、中学から塾とか友だちと過ごす方が楽しくて夕飯ちゃんと食べないし、朝は寝坊して1人で食べてたので、小学生ぶりか。

一人で旅行する事や出かける事、休日も一人でフラフラするのが好きだったり、泊まれるスーパー銭湯や24時間やっているカフェやお店で過ごしていたが、辞めた。

なぜか自分じゃなくて、両親にできる限りの体験を元気なうちにたくさんして欲しいという想いがすごく強くなり、それまで自分にかけていたお金を、普段だったら絶対食べに行かないであろう所謂高いお店、旅行、ホテルや旅館、観光…に連れ出した。
何か有名なお菓子や美味しいものがあれば、まず食べてもらうために買いにいった。

それまで家族うざーとか思っていたが、なるべく色々な話をして、感謝をしている事や、大好きである事、尊敬している事を伝えるようにした。
最初戸惑っていたが、そのうちそれを受けて喜んでくれるようになった。

なんでここまで何かをしたくなったのかは分からない。
でも病気が分かって、生きられるとなった時に、これをしたくなった。
お父さんには3年間だけだったけど、死んじゃった時に「もっとあれをしてあげれば、これをしてあげれば」が無くて、そこに関してはスッキリしていた。多分今時点で、やれることをやったからだろう。

本音を言えば、あと最低でも10年くらいは、色々楽しい想いをさせてあげたかったし、定年してまだ10年も経ってない。再就職的なのもしてたから実質3年しか遊んでない。もっと遊んでも良かったんじゃ、と思うけどこればかりはどうしようもない。

何かで30歳を超えると、大体離れて暮らしてるし、地方とかで盆暮れ正月くらいしか会わない事が多いので、実は一緒にいれる日数に換算すると1年間で60日しかない、という話を目にしたことがあった。

私365日ほぼ毎日、3年近く一緒にいたので1,000日。
60日の生活の人で加算すると、16年分。
何よりこの年で3食一緒にできて、喜んでもらえる事を沢山できる機会に恵まれる事はそうない。

元々「人は死ぬ」という事は分かっていたから両親を大切にしようとは思っていた。が、病気になったからこそ、過ごせた3年間でもあった。
じゃないとあたしは多分、まだ一人で暮らして、家にも寄り付かず、両親に何も返せず、気持ちも伝えれなかった。
「人は死ぬ」事は分かっても、「いつか、また先でいいや」と思っていたものが全てにおいて「いつかはない、今やらなきゃ」に全てのベクトルが切り替わった事は自分でも認識している。

でも今年急に元気だったはずのお父さんが倒れて、亡くなった。
この3年間があったから、私の心は救われている。

自分が病気になり、こうした死に直面し、人は死ぬ…を受け入れていたつもりだったが、先ほどのブログを見て、やっぱり死ぬのは怖いと怯える自分がいる。

当たり前だ、怖いもの。
でも最近、どこかの日本の島の話で、生きる事と死ぬ事が繋がってる概念を持った地域があって、死を当たり前に受け入れ、生きる先に死があり、それをわかってないから死が怖い、という話を目にした。
確かに。生きる事と死ぬ事は繋がってる。当たり前だけど、生きてれば死ぬんだわ、がこの言葉でなぜかすごいしっくりきた。

でもやっぱり、死が怖い私はまだ死なないとし、生きる事の本筋が見えていないのかもしれない。
でも、そんな中でもいざというその瞬間の怖さと後悔を少しでも軽くするように、毎日を過ごしたいな。

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