哀
1
あれは新緑が朽ち始め、世界がゆっくりと秋色に変わっていこうとしていた頃だった。
そんな季節と季節の狭間に取り残された二人は出会うべくして出会ったというより行き場を失った野良猫たちが偶然出会ってしまったといった方が正しい気がする。
僕は君を愛していたんだろうか、君は僕をどう思っていたんだろうか。
小骨が喉に突っかかるようなそんな気持ちが霧のようにまとわりつく。
そして時々僕は目をつむって霧の中に閉じこもることがある。
2
あの夜、満月に照られた君の頬は少し赤らんでいた。
澄んだ夜風と君のホワイトローズの香水が優しく香るあの日の記憶は何度も何度も僕を襲ってきた。
あの朝、僕の隣で無防備に眠りこける彼女は母親に抱かれる赤ん坊のそれに似ていた。
カーテンの隙間から漏れ出す朝日に照らされた君は言葉にできないぐらい透明でただひたすらに美しかった。
胸のあたりが苦しい。
すごくいい思い出なのに、
哀しいことなんて一つもないような記憶なのに、
なぜだか虚しくてどうしようもないやるせなさが胸のあたりを痛くさせた。
君が僕のもとを離れて約一年になる。
ある朝突然、君と君の荷物だけが僕の世界からきれいさっぱり消えてなくなってしまった。
もともと付き合っていたわけではないし、
恋人でも何でもない関係だったから僕はそんなに事態を深刻に考えずに自分の人生を全うしようと努力したけれど、
やはりふとした時に頭の隅で君の感触がずっと残っていることにうすうす気づいていた。
そして忘れようと心を決める、この一連の動作が余計君を思い出させる。
君が居なくなって僕はいろんな人と出会った。
色んな事があったけれど、
一度たりとも君を忘れたことはなかった。
君はどうだろう。
君は僕から離れてどんな人生を歩んでいるんだろうか。
もうそろそろやめにしよう。
区切りをつけるために君と初めて出会った公園に向かい始めた。
3
二年前、
僕はいろいろ思い悩んで公園のベンチで一人で缶酎ハイをやるせなく嗜んでいた。
ぼうっと星空を見上げていると隣にどれかがぴったりと座ってきた。
反射的に隣に目をやるときょとんと君が僕を見つめていた。
「迷い猫ですか?」と彼女は少しわけの分からないことを言ってきたが、
酔っていた僕は「そうだと思います」と当たり障りのない返事をしてしまった。
「私も落ち着かないときに散歩したりするんですよ、こうやって星が見える夜は思い悩んだ人の特権だって思いながらと時間が許す限りぼうっと空を見上げるんです。」と彼女は少しいたずらな笑みを浮かべながら話した。
「じゃ、今夜だけでも僕らだけでこの星空を二人占めしよう」
「そうしよう」
それから時間を気にせずに二人ともゆっくり息をしながら空を見上げた。
そんな日々が何度か続いたある日、君は軽く僕にキスをした。
僕も何も言わずにそれを受け入れた。
僕たちの間には愛情や思いやりの気持ちなんてものは必要なかった。
ただお互いがお互いを慰め合うので精いっぱいだったから。
友達でも恋仲でもない僕らの関係は案外心地いいものだったと思う。
そういう常識や道徳を無視した関係は少し罪悪感は残るものの責任感は何も生まれないから気楽だった。
君が僕の家に移り住んで、お互いがお互いの人生を生きながら少しの時間を共有する。
それだけで十分だったんじゃないかな、君も。
だけどちょうど同棲し始めて一年くらいたって君は跡形もなく消えた。
僕の生活の右半分の基盤がばらばらと崩れ落ちていく音が聞こえた。
4
鈴虫の鳴き声が耳の中で反響する。
月明かりが公園一帯を穏やかに照らしていた。
何もかも忘れてまた君がふらっと僕をさらってくれたらどれだけ幸せだろう。
変わらずベンチはそこにあって、空を見上げると満月が微笑んでいる。
やはり酒の弱い僕は缶酎ハイしか飲めないけれど、
煙草をしない僕にとってはこれだけが唯一の逃避だった。
これを飲み終わったら、もう君との思い出を全部捨ててしまおう。
物理的にも精神的にも、君からの卒業。
今となっては液晶に映る虚しい無機物になった君に最後に一瞥して、
君の、君との記録を全て消し去った。
もう未練も何もないんだ。
そうだろう?
「おかえり」
ホワイトローズの香りがした。
強いパンチを食らったように一瞬頭がクラっとした。
君が何事もなくそこにいた。
一年越しに君が僕の前に現れた。
得も言われぬ幸福感と同時に相反する感情が僕の心をいっぱいに満たした。
「覚えてる?」と幼馴染が偶然再会した時にかけるような言葉を僕にも平然とかけてきた。
君はどこまでもイノセントだけれどそれは痛みを知らないからだろう。
「当然さ」とできるだけ感情を見せないように僕は答えた。
ここに君が居るということはそういうことなんだろう。
「もう僕は独り立ちするよ、傷はもう舐めない」
「それはよかったね、やっと君が君を取り戻したんだよ」
言葉と裏腹に少し君は残念そうだった。
色白い君の頬はやはり満月に照らされてすぐに壊れてしまいそうなそんな危なさがあった。
白いワンピースにほのかに香るシャンプーの匂いと君の皮膚の匂い。
「もう僕は行くよ、君は今来たばかりだから少しゆっくりしていくといいよ」
「一緒に居てくれないの?」と彼女は僕の目を見つめる。
「もう僕は大人になったんだ、わかるだろう?」
「つまんないひと」
「バイバイ」
僕は君の返事も聞かずに公園を後にした。
もう僕の心には何ものこっていない。
空っぽになったぶん、何でも新鮮に感じるだろう。
秋の訪れを静かに体で感じながら僕は人生を再び一人で歩き始めた。
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