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第Ⅳ回 デカルト 「疑うことで自分を発見する」

デカルトは17世紀のフランスの哲学者で、「我思う、ゆえに我あり」という名言を残しました。

真に確実な知識を得るためにすべてを疑ってみるという「方法的懐疑」を提唱した「近代哲学の祖」と呼ばれています。


1.思考さえ存在していれば、必ず思考の主体も存在している

「我思う、ゆえに我あり」というのは「人は考えるからこそ存在価値がある」と、思考の重要性を説いているわけではありません。ではどういう意味なのでしょうか。

人が思考するとき、この思考している人を「思考の主体」と呼び、その人が思考している対象を「思考の客体」と呼びます。

例えばアイスコーヒーが飲みたいとき、私が思考の主体であり、アイスコーヒーが思考の客体です。「思考の主体」「思考の客体」は脳内での想像や考えであっても良いのです。

つまり、「我思う、ゆえに我あり」とは「思考には必ず思考の主体が存在しているため、思考さえ存在していれば間違いなく思考の主体も存在している」ということです。

少し難しいですね・・・。

2.間違いを避けられない主な原因は間違った知識だとデカルトは考えた

デカルトは、人が間違いを避けられない主な原因は、日頃から正しいと信じている間違った知識のせいだと考えました。

もし間違った知識を使って思考すれば、たとえ推論に誤りがなくても、間違った結論を導いてしまうのです。

そこでデカルトは「全面的に疑う」という方法で、疑わしい知識を全て捨て去り、新たに知識を構築することにしました。そして「人生において真理を追究するには、信じていることを全て、少なくとも一度は疑う必要がある」と主張しました。


3.思考の主体の存在は疑いようがない

知識や倫理、数学などこの世には疑いようのないものなどほとんど存在しないと気付いたデカルトは、最終的に「思考の主体の存在」は疑いようがないという答えを出しました。

この結論は、哲学理論の発展において重要な意味をもっていますが、ただちに日常生活に活かせるというものではありませんでした。それから数百年の時をかけて現在の日常生活に役立つ素晴らしい知恵となったのです。


4.私たちの知識は一つの基礎の上に存在しているわけではない

デカルトから始まった「知識そのものを深く追及する」という作業は、数百年の思考を経て「真理の整合説」という知恵を導き出しました。

知識というのは、知識ごとに個別の土台が存在するのではなく、実は、複数の知識が集合し互いに支え合っているため、そのどれか一つでも欠かすことは出来ないという説です。

自分と異なった考えの相手と完全に分かりあえることは、そう多くありません。対話には誤解がつきものなので、相手が「分かった」と言っても相手が完全に自分の考えを理解したと思うのは危険です。


5.懐疑的精神を養ってフェイクニュースに騙されない

私たちもデカルトのように「懐疑」を実践すれば、疑わしい考え方を数多くから発見することが出来、迷いが消え執着からも解き放たれます。 

世にあふれている偽情報に対抗するには、鋭い懐疑的精神を養うことが大事です。懐疑的精神は「批判的思考」とも称されます。

自分独自の観点を疑ってみると、凝り固まった考えから抜け出すチャンスが訪れます。そしてそれが知恵の成長における重要な転換点となるのです。

ここでのポイントは、懐疑的精神が疑う対象は、情報であって人格ではないということです。「他人を信頼する」ことは優れた性質です。

まず信頼し次に疑うという行為はアリストテレスの言う幸福につながる優れた性質に属します。一方で、いかなる情報もまずは疑い、次に信頼するという批判的な思考力は怪しい情報を間違って信じてします回数を減らすことができ、これも幸福につながる重要な要素といえます。


6.情報を「濾過」して懐疑的精神を習得する

「濾過」とは、情報の中から疑わしい部分を探し出す作業です。

1.それが原因だとは限らない
2.以前がそうだからといって、いまもそうとは限らない
3.少数がそうでも、他の大多数もそうであるとは言えない
4.表面的なものが真相とは限らない
5.合理的なものが正しいとは限らない

これらの教えを用いる習慣がつけば、思考の高速濾過機を手に入れることができます。

デカルトの思想は私には難しいものが多く、分かりにくい文章になったことご容赦ください。

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