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第Ⅴ回 ディヴィッド・ヒューム 「心とは、知覚の幅にすぎない」

ヒュームはイギリスの哲学者で、因果関係は習慣による思い込みであって、自然界には存在しないと考えました。イギリス経験論の完成者と言われています。

ヒュームは前回のデカルトよりも難しくてほとんど分かりませんでしたm(__)m

1.ヒュームは知識がどこから来るのか考えた

デカルトはプラトンの伝統路を受けついた一方でヒュームは感覚器官による経験を重視したアリストテレスの経験主義の伝統を受け継ぎました。

ヒュームはそれぞれの知識がどういう経験に由来するのかを検証しようとし、極めて根本的な知識については、その根源を経験の中から探し出すことは不可能だということに気付きました。

そしてあらゆる「懐疑」において、特にヒュームは「自我」と「因果」に対する懐疑という点で多大なる影響をもたらしました。


2.デカルトの「疑いようのない自我」をヒュームは疑った

デカルトが「自我」の存在を肯定した一方で、ヒュームは「自我」の存在は疑わしいと考えました。(デカルトの「疑いようのない自我」については前回を参照)

ヒュームは、人はこの「自我」を確認しうる知覚的な経験を一切したことがないというのです。私たちは習慣的に想像上の内在的な核心のようなものを「自我」として自分自身を認識しています。

例えば、火は絶え間なく熱気を立ち昇らせ発行しているため、私たちはそれを「一つのもの」だと感じていますが、実はただの錯覚です。火とは発行する気体が連続的に拡散している「現象」であって「一つのもの」と呼べるような核心的な存在ではないのです。

自我も同様なものであると考えました。


3.現代の科学と哲学における「自我」

実際、私たちには内省の中で「自我」という知覚的な経験を探し出す方法はなく、大脳神経の動きを見ても「自我」を司る部位を特定することはできません。

例えば、認知症患者や、脳損傷患者は時が経つにつれて「自我」は以前と同じとは言えなくなります。ゆえに「自我」とは一種の認知的な産物であり、自然に形成された仮説的な存在であると言えます。

さらに言うなら、一種の錯覚であり、それ自身が不確かなものなので、私たちはある特定の存在を指して「これこそが私だ」とは言えないのです。


4.ヒューム哲学の仏教への応用

我執を打ち破るというのは、仏教において苦しみから抜け出すための重要な関門ですが、非常に厳しい修行なので、どこから手をつければよいのか見当もつきません。この時ヒューム哲学が役に立ちます。

また、人生におけるほとんどの苦悩、たとえば「私は人にどう見られているか」「私はどういう身分なのか」「私の存在は危ういのではないか」といった苦悩は全て我執に端を発しています。「自我」を傷つけられたりでもしたら非常に不愉快なものです。

しかし、もしその「自我」が見せかけで、実在しないとしたら何を思い悩むことがあるでしょう。そしてそんな不確かなものの名誉を守るために幸せを棒に振る必要があるでしょうか。

「自我」を疑うという説を思考に取り入れるだけで体面を気にすることもなくなり、他人の目を恐れることもありません。もしかすると死の訪れさえも怖くなくなるかもしれないとヒュームは考えました。


5.ヒュームは因果の存在まで疑った

ヒュームは「自我」のほかに「因果」、つまり物事の「因果関係」までも疑いました。人はいとも簡単に二つの事柄を因果関係として関連づけてしまうけれど、それは間違いだという意味です。

デカルトの懐疑は「あらゆる事柄を一度疑ってみる」ことですが、ヒュームの「因果」に対する懐疑は「因果は本当に存在しているのか?」という因果そのものに対する疑いです。


6.「因果」は習慣的な思考にすぎない

ヒュームは「因果」も「自我」と同様に、感覚器官により観察されたことがないため、その存在は実に疑わしいと言っています。

例えば、手を開いてペンを手放すとペンは机の上に落ちます。そんなとき私たちは「私の手が開く」が原因で「ペンが机の上に落ちる」が結果というふうに、因果関係として結びつけています。しかし、ヒュームはこれをただの前後関係であるとします。

なぜなら「因果」は明らかに「前後」よりも多くのない内容を含んでいるからです。簡単に言うと、「因果」とはその無限の関係性の中の一つに過ぎないということです。



とまぁこんな感じでまとめましたが、筆者も「言語で明確に説明できるレベルを超えているので、共有するのが難しい」と言っているので分からなくても仕方ないでしょう。

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