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[Chapter7]「クオリア」と「スティグマ」,「同類」と「訳知り」

chapter6の続き。

1. クオリア(qualia)

「これは何?」「これは何?」と該当物を区切って問うてみると,たいてい’’名前’’をもっている。つまり区別できます。この「区切る」とか「区別する」ということが,情報を扱うときにとても重要なことなのです。情報というものは区別しなければ見えてこないんです。区別できていないものは,漠然として情報にならないんですね。(中略)こういうふうに,情報の本質は「区別力」にあるのです。

「17歳のための世界の見方」/松岡正剛

『近代科学がものごとを区別すること,「切ること」を最大の武器にしている』と臨床心理学者である河合隼雄は言う。

心理学や哲学,宗教学や社会学をほとんど学んでいない学生に,「自分の(他者の)痛みを言語化しなさい」といっても何も言葉にできない.しかし,書店や図書館に行って専門書を何十冊か読み通すことができれば「痛みの細胞図」は誰でも描けるようになる.だがそれと同時に,自分が(他者が)痛みを感じたとき,その痛みを「これはモヤモヤした名もない構造だ」とはとらえられなくなる。

この図は、最初はまったくバラバラに見える。そしてふいに、全てがはまって犬が見える。大雑把に言えば犬のクオリアを感じてしまう。すると次に見る時は、どうしても犬が見えてしまう。

「脳の中の幽霊」/V・S・ラマチャンドラン

この「モヤモヤした名もない構造」のことを我々はこれから「クオリア(qualia)」と呼ぶことにしよう。クオリアとは「社会的,文化的な文脈に置かれたり,言葉などのラベルを付けられたりする以前の,私たちの感覚の持つ独特の原始的な質感のこと」である。

私たちの心の中の全ての表象は,「クオリア」という単位から出来ている。例えば,薔薇が心の中に見えている時,それは,色や,テクスチャ,形,香りといったクオリアの集合体である。赤のクオリアは,それが薔薇のイメージに組み込まれようが,トマトのイメージに組み込まれようが,要素としては同一の属性を持っている。ミルク味のクオリアは,それが,ミルクという認識,「ミルク」という言葉のラベルと結びつけられるかどうかにかかわらず,同じ属性を持っている。

クオリア入門/茂木健一郎

要するに私が青と感じて、皆さんが赤と感じているものを、逆に入れ替えても、はじめからそういう約束事でしゃべっているから、言葉のうえではほとんど矛盾が生じない。実は言葉というのは、クオリア自体を表現することはできますが、クオリアの中で起こっているさまざまな量的な関係は表現することはできない。それを我々は主観と言います。そういう、頭の中で主観的にどういう感覚が生じているかということは言語にはならない。それはなぜかというと、言語は外部に表出された記号だからです。

手入れという思想/養老孟司

この「クオリア」を共有することが,生きづらさや痛みというものを癒していくための第一歩だと思う。私が大学生の頃に「リーダー」として経験した痛みは,「#8月31日の夜に」において生きづらさを吐きだしてくれた高校生によって掬われた。その時の私の痛みは,譬え同じ’’リーダー’’という立場の人たちと共有出来たとしても掬われるものではなかったと思う。「この肩書きがなくなれば私は必要とされるんだろうか」「みんな身勝手だ」「私のことなんて誰も見てない」「(私から見たら)この人の方が頑張ってるのになんで」「なんでこんなに言葉にしなくちゃいけないの」そんな風に肩書きを超えた,同じ(質や量の)クオリアの中から生み出された言葉だったからこそ、心に響いたんだろうと思う。この体験は『違うと思った痛みでも必ず同じものがあるし、同じと思っと痛みでも必ず違うものがある』という価値観を私に植え付けた。

私は、たった1人で悩み苦しみながら生きてきたのに、私の悩みや苦しみや思考パターンは、ここに書いてあるマニュアルどおりではないか。私の今までの孤独はいったい何だったのだ。

「性虐待の父に育てられた少女」/川平那木

「不登校」「LGBTQ」「HSP」という言葉のラベルは’’社会的・文化的文脈’’に置くために仕方なくやっているんです,支援者はそう強く発信するべきではないだろうか?言葉(ロゴス)それ自体に『寄せ集める』という意味がある。私たちはその性質をまんまと利用して「○○という人のための団体です!」「私たちは、社会活動(地域活動)を全力で支援しますよ!」と声高らかに叫んで仲間集めをしている。「ほらこんな言葉が好きなんでしょう」「すごく美味しいよ」「早く蜜を吸いに来なさいよ」所詮は言葉,言葉なのに,私たち人間はまるで蜜蜂みたいにそれに、いとも簡単に惹きつけられてしまう。お腹が空いていれば、弱っていれば尚更だ。

「『隔離』が,1番スティグマの温床となる」「『対等性』『連続性』という2つの条件が揃った上で健常者と障害者が接触しないといけない」と熊谷晋一郎教授は指摘しているが、支援者が,居場所づくりをしていると謳う団体が,どのくらい隔離した後のことを考えられているだろうか?私は甚だ疑問である。

2.スティグマ(Stigma)

スティグマとは?

「烙印」とは、銅、鉄製の印を焼いて物に押し当て、しるしをつけたもの。刑罰としてやきいん罪人の額などに行われたもの・焼印のことをいう(『広辞苑』)。西部劇などの画面で、牛や馬が所有者をあきらかにする焼印を押される情景を。一瞬煙が立ち、生身の肉が焼かれることを実感する。罪人として額に焼印を押されている人には会ったことがない。ユダヤ人や「ジプシー」であるがゆえに、ナチスの強制収容所で番号をいれずみされた人たちに会ったことはある。かくれようもない「烙印」、人間であることを否認され、家畜以下の存在となる番号であった。人にとっての烙印とは、その社会の異端者、あるいは法廷で裁かれた人など、歓迎されない存在であることの消えない印象。何枚ぬいでもぬいでも、新しくなったはずの衣類にしつこくあらわれてくるような“しるし”。その社会に許容されず、押し出される存在であることの証明ともいえる。
誰も好んで烙印を押されたりはしない。時勢の流れの変化から、あるいは小さな人間の葛藤から烙印の人生を生きる。殺人などの事件を含め、気づいたら烙印を負って生きていることになる。

「烙印のおんな」/澤地久枝

「スティグマ(Stigma)」は古代ギリシャ起源の語で、元々は「表徴が身体に刻印ないし烙印され、その表徴の保持者が奴隷、罪人、裏切り者であることを周囲に告知する」ものだった。歴史的な語義の変遷を経て、身体的な表徴よりも「不名誉・恥」自体を表すという現代の用法に至ることになる。

「スティグマ(Stigma)」という意味を明確にして、社会学に導入したのは「アーヴィング・ゴフマン」という社会学者が最初である。(ゴフマンはスティグマには主なものとして①「肉体のもつ様々な醜悪さ」②「個人の性格上のさまさまな欠点」③「人種,民族,宗教などという集団的スティグマ」の3つの種類があるとしている)

見知らぬ人が私たちの面前にいるとき、その人がある種の属性ー人間のカテゴリーにおいてその人が他の人たちと異なることを示す属性ー、そして望ましくない属性ー極端な場合、極悪だとか、危険だとか、愚鈍だとかの属性ーを所有している証拠が現れる事がある。その人は、このようにして私たちの心の中で、健全で普通の人物から堕落して価値の低い人物へと降格する。そうした属性が持つ信用を失わせる効果が非常に広範囲にわたるとき、その属性はスティグマである。

「スティグマ」/アーヴィング・ゴフマン

見知らぬ人が私たちの面前にいる・・・

ゴフマンはそのような、一般的な「対面相互行為場面」から、どのようにスティグマが生じるのかを考察している。対面相互行為場面において、特に他者が見知らぬ人または初対面の人である場合、その他者が「何者か」「どんな人なのか」を知ることは極めて重要で、その際、私たちまず「人々をカテゴリー化する手段」に頼る。例えば「この人はロシア人だ」「この人は女性だ」「この人は看護師だ」「この人は30歳ぐらいに見える」「この人は優しそうだ」などのように。

ゴフマンは,私たちは面前にいる人に対して「こういう人でなければならない」という要求を知らぬ間に行っていると把揮している。個人Aの生活史と密接に関連したアプリオリな特定の期待から負の方向に逸れてしまっている個人Bという,そのような再者が出会っている場面を想定すると,Bという個人は Aにとっては「スティグマのある人」 となる。ここでわかるとおり,この「スティグマ」 とはAとBの関係を表現する言葉として機能している。

繋がらない個人のために/宮内洋

「ノーマル者」と「スティグマがある人」

ゴフマンは『スティグマは「属性」ではなく「関係」を表現する言葉だ』と説明している。スティグマは「スティグマを負う者」と「健常者(the nomals)」という実体として区別できる2つのグループではなく、2つの役割ないし視角によって上演される社会過程であり、どの個人も、少なくとも一定数のつながりや人生の諸局面では、どちらの役割にも割り振られる可能性があると。つまり「スティグマがある人」とされる人たちは「スティグマがある人」として一生を終えるわけではないし、多数の、絶対的な優位性が保証されていると考えている「ノーマルな人」の基盤も、不安定で脆いものである。

「同類(the own)」と「訳知り(the wise)」①

自己を「スティグマのある者」であると強く認識している個人にとって 「この世の中での自分の立場を十分に理解してくれ,自分が人間で、本質的にはノーマルだという気持ちを自分とともに分かち合える,自分と共感する他者」の存在はきわめて大きいものである。ゴフマンは,そのような伯者は二つのカテゴリーに分類できるとしている。すなわち,第一に自分と同じスティグマのある人々であり,第二に「ノーマルな人ではあるが,スティグマのある人の臆された生活に個人的に深く関わるような特別な状況にあり,その生活に共感する人」である。ゴブマンは, 前者を「同類」,後者を「訳知り」と呼ぶ。

繋がらない個人のために/宮内洋

「同類(the own)」は「内集団(=同じような状況内にある諸個人から構成される集団)」と「外集団(=内集団を含み込んだより広い包括的な集団)」の2つの概念に分けられる。前者からは政治学的表現によって、後者からは精神医学的表現によって、①「あなたは包括社会の一員であり「ノーマルな人間」である」②「あなたはある程度「異常」であり、この異常を否定してはならない」と指示され、ダブル・バインドな状況に置かれることになる。

「内集団」は自分と同じ状況の「同類」の集団であるが,集団としての主張を強めていくためにも「ノーマルな人」 を装う「同類」を非難する。このためにスティグマのある人」は「内集団」に依拠すると,現状のままでは対他的に「スティグマのある人」であり続けなければならないという逆説的な状況に置かれることとなる。また,彼/彼女に対して「ノーマルな人」として自己認識するように曜く「外集団」は,実のところ,彼/彼女を「スティグマのある人」に搾し込めた元凶であったはずである。こうして,各々の集団の内実とその打ち出す指示とが絡まり合い,ニ重のダブル・バインドな状況に壁かれるのである。

繋がらない個人のために/宮内洋

私もこのような「内集団」と「外集団」という別個の集団から発される、ベクトルの異なるメッセージによって、自分のアイデンティティの統一に思い悩んだことがある。自分を「HSP」「ADHD」「アセクシャル」などという「内集団」に依拠させているとそのカテゴリーに置かれている大多数の人たちと同じように振る舞わなくてはいけないような気がしてくる。自らを「スティグマのある人」の位置に押し込んでしまう。「同じような立場の人がたくさんいるじゃん」と、その一瞬は喜べるが「ネットや本でこのように定義されているんだ」ということを知ると段々と、枠組みに嵌められているような感じがしてくる。SNSにいる、当事者性を声高々に叫んでいる内集団のオピニオンリーダーを見ては何度も嫉妬する。一緒に感情は共有できても、強み弱みを補い合えないために問題解決できる可能性はないと、予感できてしまう。

だがその一方で外集団に依拠すると「ノーマルな人」になりきらないといけない、という考えに陥る。(ゴフマンの言う「よい適応」)だって、自分の境遇をいちいち話すのは精神的体力が削られる。相手に上手く伝わらない、期待を尽く裏切られる。そんな体験を何度もするよりも「ノーマル者に適応した方が楽なのでは?」と思い込みたくなってくる。しかし、そういう「ノーマルな人」に適応しても「ブルシットジョブ」が次々とやってくるだけ。より自分の立場は追い込まれたものになっていく。だからといって「スティグマのある人」になろうとすると、また内集団から「スティグマのある人としてあり続けなさい」というようなメッセージを浴びる。ずっと堂々巡り。

「同類(the own)」と「訳知り(the wise)」②

このような状況の時には「訳知り(=ノーマルな人ではあるが,スティグマのある人の隠された生活に個人的に深く関わるような特別な状況にあり,その生活に共感する人)」と呼ばれる人の存在が大きいものになってくる場合もあるだろう。

この「訳知り」にも二つのパターンをゴフマンは用意している。まずは,①医者や看護婦といった,あるスティグマのある人たちの要求に応える,あるいは社会が一方的に押し付ける措置を遂行する機能をもった施設で働いているときに彼/彼女たちと接する人たちであるヘ次に,②家族といった,スティグマのある人に社会構造上関係をもった人たちである。特に後者の特徴として, ゴブマンは周囲の社会は彼/彼女たちを一緒くたにして取り扱うものだとしている。

繋がらない個人のために/宮内洋

「訳知り」になる以前にその個人はある種の「心の変化に至る私的な経験」を通り抜けることを指摘している。その「ノーマルな人」は,「スティグマのある人」 に共感しているだけでは「訳知り」ではなく「彼/彼女に受け容れられていなければならない」。ゴフマンは次のような話を引用している。

最初「黒人」たちは自分たちのことを気をつけて「ニグロ (Negro)」と呼んでいたが,そのうちに「黒人」同士では「ニガー (niger)」と呼び始めた。ある日,主人公(主人公は「黒人」ではない)はふざけている最中に, 初めて「ニガー」という言葉が口から飛び出した。そのときに相手の「黒人」の少年はにやっと 白い歯を見せ「この野郎」と返した。そのときを境にして,その場にいる者は みんな「ニガー」という言葉を自由に使えるようになった。同時に,主人公にとって以前のカテゴリーはまったく変わってしまった,

繋がらない個人のために/宮内洋

私も上記と似たような「私的な経験」をよくするし、させる時もある。例えば私は一般的な男性よりも声が高めなので「男性が怖い」という女性と会話を重ねていくと、段々とその女性が男性に持つ不安や恐怖を取り除いてあげられることがある。(「異性不安」がある人は、女子校(男子校)に行っていた人に多い気がしている)

その他には、複数の異性と関係を持ってしまうという人とその感覚を共有すると、浮気や不倫、男(女)友達などのようなカテゴリーの捉え方ががらっと変わる瞬間がある。その人の家庭環境や、それまで性愛の遍歴等と密接に関わっている場合も多いため、かなり個人的な経験を相手に共有することになった。

3.雑記

見たくないものは絶対に見ない、という「過剰なゾーニング」が拡がって、社会がどう回っているのかを理解できない人々が増えている。マクロに俯瞰すると多様に見えるが、各ゾーンにいる人は多様性を見ないで済む。現代の多様性は「ゾーニングによる多様性」だと言えるだろう。混ざっているように見えても「サラダボウル」の中の野菜はそれぞれの野菜のまま。キャベツはキャベツだし、トマトはトマトだし、きゅうりはきゅうりのままで分けられている。

ようするに多様性には2種類あって、ます一つ目は彼が「サラダボウル」と呼んでいたゾーニングです。これは、それぞれの人間たちがいろんなカテゴリーを帯びていて、どんなカテゴリーでも生きやすくなれるように制度を作れということ。しかしローティは、これをくだらないと一蹴したんですね。なぜかと言うと、自分をカテゴリーで定義して、公的な制度に登録して、自分に権利を与えろ、というやり方は、人間的な生き方の堕落だと考えたんですね。もう一つは、サラダボウルではなくてメルティングポッド。つまりゾーニングではなくてフュージョンがいいと考えたんですね。わかりやすく言えば自分は男でもあり女でもあり、ゲイっぽくもありレズビアンっぽくもあり、あるいは大人のようでもあり子供のようでもある。つまり、子供の頃を思い返してみると例えばマザータウンが違っても平気で遊べるじゃないですか。国籍が違ったって宗教が違ったって平気で、そういう言葉あるいは言葉によって組み上げられたものの外で繋がることができるわけですよね。これがフュージョンという状態です。」(宮台真司)

https://www.joqr.co.jp/qr/article/50544/

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