[Chapter7]「クオリア」と「スティグマ」,「同類」と「訳知り」
chapter6の続き。
1. クオリア(qualia)
『近代科学がものごとを区別すること,「切ること」を最大の武器にしている』と臨床心理学者である河合隼雄は言う。
心理学や哲学,宗教学や社会学をほとんど学んでいない学生に,「自分の(他者の)痛みを言語化しなさい」といっても何も言葉にできない.しかし,書店や図書館に行って専門書を何十冊か読み通すことができれば「痛みの細胞図」は誰でも描けるようになる.だがそれと同時に,自分が(他者が)痛みを感じたとき,その痛みを「これはモヤモヤした名もない構造だ」とはとらえられなくなる。
この「モヤモヤした名もない構造」のことを我々はこれから「クオリア(qualia)」と呼ぶことにしよう。クオリアとは「社会的,文化的な文脈に置かれたり,言葉などのラベルを付けられたりする以前の,私たちの感覚の持つ独特の原始的な質感のこと」である。
この「クオリア」を共有することが,生きづらさや痛みというものを癒していくための第一歩だと思う。私が大学生の頃に「リーダー」として経験した痛みは,「#8月31日の夜に」において生きづらさを吐きだしてくれた高校生によって掬われた。その時の私の痛みは,譬え同じ’’リーダー’’という立場の人たちと共有出来たとしても掬われるものではなかったと思う。「この肩書きがなくなれば私は必要とされるんだろうか」「みんな身勝手だ」「私のことなんて誰も見てない」「(私から見たら)この人の方が頑張ってるのになんで」「なんでこんなに言葉にしなくちゃいけないの」そんな風に肩書きを超えた,同じ(質や量の)クオリアの中から生み出された言葉だったからこそ、心に響いたんだろうと思う。この体験は『違うと思った痛みでも必ず同じものがあるし、同じと思っと痛みでも必ず違うものがある』という価値観を私に植え付けた。
「不登校」「LGBTQ」「HSP」という言葉のラベルは’’社会的・文化的文脈’’に置くために仕方なくやっているんです,支援者はそう強く発信するべきではないだろうか?言葉(ロゴス)それ自体に『寄せ集める』という意味がある。私たちはその性質をまんまと利用して「○○という人のための団体です!」「私たちは、社会活動(地域活動)を全力で支援しますよ!」と声高らかに叫んで仲間集めをしている。「ほらこんな言葉が好きなんでしょう」「すごく美味しいよ」「早く蜜を吸いに来なさいよ」所詮は言葉,言葉なのに,私たち人間はまるで蜜蜂みたいにそれに、いとも簡単に惹きつけられてしまう。お腹が空いていれば、弱っていれば尚更だ。
「『隔離』が,1番スティグマの温床となる」「『対等性』『連続性』という2つの条件が揃った上で健常者と障害者が接触しないといけない」と熊谷晋一郎教授は指摘しているが、支援者が,居場所づくりをしていると謳う団体が,どのくらい隔離した後のことを考えられているだろうか?私は甚だ疑問である。
2.スティグマ(Stigma)
スティグマとは?
「スティグマ(Stigma)」は古代ギリシャ起源の語で、元々は「表徴が身体に刻印ないし烙印され、その表徴の保持者が奴隷、罪人、裏切り者であることを周囲に告知する」ものだった。歴史的な語義の変遷を経て、身体的な表徴よりも「不名誉・恥」自体を表すという現代の用法に至ることになる。
「スティグマ(Stigma)」という意味を明確にして、社会学に導入したのは「アーヴィング・ゴフマン」という社会学者が最初である。(ゴフマンはスティグマには主なものとして①「肉体のもつ様々な醜悪さ」②「個人の性格上のさまさまな欠点」③「人種,民族,宗教などという集団的スティグマ」の3つの種類があるとしている)
見知らぬ人が私たちの面前にいる・・・
ゴフマンはそのような、一般的な「対面相互行為場面」から、どのようにスティグマが生じるのかを考察している。対面相互行為場面において、特に他者が見知らぬ人または初対面の人である場合、その他者が「何者か」「どんな人なのか」を知ることは極めて重要で、その際、私たちまず「人々をカテゴリー化する手段」に頼る。例えば「この人はロシア人だ」「この人は女性だ」「この人は看護師だ」「この人は30歳ぐらいに見える」「この人は優しそうだ」などのように。
「ノーマル者」と「スティグマがある人」
ゴフマンは『スティグマは「属性」ではなく「関係」を表現する言葉だ』と説明している。スティグマは「スティグマを負う者」と「健常者(the nomals)」という実体として区別できる2つのグループではなく、2つの役割ないし視角によって上演される社会過程であり、どの個人も、少なくとも一定数のつながりや人生の諸局面では、どちらの役割にも割り振られる可能性があると。つまり「スティグマがある人」とされる人たちは「スティグマがある人」として一生を終えるわけではないし、多数の、絶対的な優位性が保証されていると考えている「ノーマルな人」の基盤も、不安定で脆いものである。
「同類(the own)」と「訳知り(the wise)」①
「同類(the own)」は「内集団(=同じような状況内にある諸個人から構成される集団)」と「外集団(=内集団を含み込んだより広い包括的な集団)」の2つの概念に分けられる。前者からは政治学的表現によって、後者からは精神医学的表現によって、①「あなたは包括社会の一員であり「ノーマルな人間」である」②「あなたはある程度「異常」であり、この異常を否定してはならない」と指示され、ダブル・バインドな状況に置かれることになる。
私もこのような「内集団」と「外集団」という別個の集団から発される、ベクトルの異なるメッセージによって、自分のアイデンティティの統一に思い悩んだことがある。自分を「HSP」「ADHD」「アセクシャル」などという「内集団」に依拠させているとそのカテゴリーに置かれている大多数の人たちと同じように振る舞わなくてはいけないような気がしてくる。自らを「スティグマのある人」の位置に押し込んでしまう。「同じような立場の人がたくさんいるじゃん」と、その一瞬は喜べるが「ネットや本でこのように定義されているんだ」ということを知ると段々と、枠組みに嵌められているような感じがしてくる。SNSにいる、当事者性を声高々に叫んでいる内集団のオピニオンリーダーを見ては何度も嫉妬する。一緒に感情は共有できても、強み弱みを補い合えないために問題解決できる可能性はないと、予感できてしまう。
だがその一方で外集団に依拠すると「ノーマルな人」になりきらないといけない、という考えに陥る。(ゴフマンの言う「よい適応」)だって、自分の境遇をいちいち話すのは精神的体力が削られる。相手に上手く伝わらない、期待を尽く裏切られる。そんな体験を何度もするよりも「ノーマル者に適応した方が楽なのでは?」と思い込みたくなってくる。しかし、そういう「ノーマルな人」に適応しても「ブルシットジョブ」が次々とやってくるだけ。より自分の立場は追い込まれたものになっていく。だからといって「スティグマのある人」になろうとすると、また内集団から「スティグマのある人としてあり続けなさい」というようなメッセージを浴びる。ずっと堂々巡り。
「同類(the own)」と「訳知り(the wise)」②
このような状況の時には「訳知り(=ノーマルな人ではあるが,スティグマのある人の隠された生活に個人的に深く関わるような特別な状況にあり,その生活に共感する人)」と呼ばれる人の存在が大きいものになってくる場合もあるだろう。
「訳知り」になる以前にその個人はある種の「心の変化に至る私的な経験」を通り抜けることを指摘している。その「ノーマルな人」は,「スティグマのある人」 に共感しているだけでは「訳知り」ではなく「彼/彼女に受け容れられていなければならない」。ゴフマンは次のような話を引用している。
私も上記と似たような「私的な経験」をよくするし、させる時もある。例えば私は一般的な男性よりも声が高めなので「男性が怖い」という女性と会話を重ねていくと、段々とその女性が男性に持つ不安や恐怖を取り除いてあげられることがある。(「異性不安」がある人は、女子校(男子校)に行っていた人に多い気がしている)
その他には、複数の異性と関係を持ってしまうという人とその感覚を共有すると、浮気や不倫、男(女)友達などのようなカテゴリーの捉え方ががらっと変わる瞬間がある。その人の家庭環境や、それまで性愛の遍歴等と密接に関わっている場合も多いため、かなり個人的な経験を相手に共有することになった。
3.雑記
見たくないものは絶対に見ない、という「過剰なゾーニング」が拡がって、社会がどう回っているのかを理解できない人々が増えている。マクロに俯瞰すると多様に見えるが、各ゾーンにいる人は多様性を見ないで済む。現代の多様性は「ゾーニングによる多様性」だと言えるだろう。混ざっているように見えても「サラダボウル」の中の野菜はそれぞれの野菜のまま。キャベツはキャベツだし、トマトはトマトだし、きゅうりはきゅうりのままで分けられている。