家族のこと(母)③

今回も母のことについて書いていきます。

前回は、私が高校時代、お笑いの道に進みたいと考えていたこと、
反対されるだろうと思っていた母から「家にはあなたを進学させるお金がない。だから、あなたが何をしようと反対する気はない。ただ、お金は出せない」と言われ、途方に暮れていたことまで書きました。

その後、新聞奨学生という制度を知り、働きながら学校に行くことができることを知ります。


ただ、新聞奨学生になるためには、大学か専門学校でないと学費が降りず、NSCでは学費が降りないことから、
別のタレント専門学校への入学を決め、卒業後は実家を出て、新聞奨学生の寮で生活をし、専門学校に通うことになります。


実家を出ることについては、そもそも母と衝突したままの状態であり、実家に良い思い出がないため、感傷的に浸ることもなく一人暮らしを手にしたことになります。


ただ、新聞奨学生は、思い描いていた一人暮らしとは到底言えない生活でした。

新聞配達の朝は早く、3時前に起床し、6時くらいまで仕事。
そのあと仮眠して、8時には登校。15時までは学校ですぐ帰宅して夕刊配達。
21時頃まで集金業務。3時に起きなければならないため、帰宅後はすぐ就寝。
こんな生活でした。


念願の一人暮らしとはいっても、実際は奨学金という借金のために無理矢理働かされているような状態でした。
この時の経験から、私の仕事観は大きく歪んでいくことになります。


また、進学した専門学校は、タレント学校であったものの「お笑い養成所」とは程遠い学校でした。

高額な入学金や授業料でしたが、私個人の印象では「金さえあれば入学でき、大学に行きたくない人間がとりあえず遊びたいが為に入学する専門学校」という印象でした。

まともに授業を聞いたり、先生から学ぼうとするような生徒は皆無で、皆毎日ただ遊びに来ているだけでした。


このような環境で私は周囲と全く合わず、入学して早々にお笑いへの興味はなくなってしまいました。

やりたいことがなくなり、途方に暮れましたが、既に奨学金を借りてしまっており、退学しようにも入学金と授業料を一括返済しなければならない状態で、母にも相談できず、途方に暮れていました。


そんな中、たまたま高校時代の友人と話していた中で「やりたいことがなければ、とりあえず大学に行くのも良いのでは?大学に入ってからやりたいことを見つけても良いはず」と言われました。

確かに、まだ高校を卒業して半年も経過しておらず、今から準備すればなんとか大学受験には間に合う状態でした。


悩んだ末に大学進学を決め、新聞奨学生を続けながら昼間は専門学校に通わずに図書館に通い、自分で大学の受験勉強をすることに決めました。


高校時代は成績が悪く殆ど勉強をしていませんでしたが、私立文系の受験勉強程度ならなんとかなる状態であり、3教科に絞って昼間は猛勉強しました。


いわゆる「仮面浪人」と同じような状態でしたが、学校には行かずに図書館に通っており、勤務先である新聞配達店にも伝えていませんでした。

「学校に行っていないことがばれると退職させらるかもしれない」と考え、昼間は専門学校に行っていると嘘をつき、実際は図書館で大学受験の勉強をしていました。

実際は、大学受験直前、学校に行っていないことがバレてしまい、正直に大学受験する旨を伝えることになるのですが。


このとき、店の女将さん的な事務員から「なんで正直に言わなかったんだ」と訊かれ、冷たく「ここの人を誰も信用できないから」と答えてしまい、その事務員を泣かせてしまったことは覚えています。

新聞配達店は、色々な事情を抱えて勤務している方が多いため、困ったことは何でも相談して欲しかった、と言っていました。

しかし、小さい頃から大人に対して不信感しかなかった私にとっては、「大人は信用できない」と思っており、当時はまだ若かったこともあって、強い口調で言ってしまったようです。


大学の受験料は、経済的に母に頼ることはできなかったため、新聞配達の僅かな給料を切り詰めて貯金しました。

大学進学しても、再度入学金や授業料が必要になるため、できる限り授業料の安い私立大学を志望校とし、結果無事に合格しました。

新聞店とは衝突したままだったので、別の新聞会社の奨学生をすることにし、やはり新聞配達をしながら大学生活を送りました。

専門学校時代と併せると、合計5年間新聞配達をしていたことになります。

勿論、新聞配達をやりたくてやっていたのではありません。
金銭的に実家に頼れないため、仕方なくやっていただけです。

後日改めて書きますが、このことがきっかけで「仕事というものは、お金を稼ぐために嫌々やらなければならないことだ」という歪んだ仕事観が形成されることになります。


そして、母との関係は、大学に入ってから更に悪化します。

高校時代、「お金がない」という理由で専門学校進学のお金を出して貰えず、仕方なく新聞奨学生をするしかなかったのですが、
私が専門学校に入学する際、母が別の所から奨学金を借りていたことが分かりました。


その金は「あなたが引っ越す時に、引っ越しや家具を買ったりするのに使った」と説明されましたが、新聞配達店への引っ越しは、兄の車に乗せて貰っていました。


また、引っ越し先で買ったのは、家電は電子ピアノ・冷蔵庫のみ、あとはカラーボックスや衣装ケース等の僅かなものであり、総額10万程度の金額です。


にも関わらず、このとき母は、趣味のバイオリンのために、50万円もするバイオリンを買っていました。


息子の進学の金は出せないのに、自分のためのバイオリンは気軽に買う。

しかも、息子は新聞奨学生で自分で授業料を払っているのに、息子を抵当に奨学金を借りる。。。


大学時代にこのことが分かり、母に対して憎悪の気持ちしか沸いてこなくなりました。

実家から離れた場所に住んでいたこともあり、実家とは距離を置くようになりました。

また、私が高校を卒業して実家を出るとき、母が
「学費は出してあげられなかったけど、せめてあなたが車の免許を取るときには、教習所代は出してあげるから。。。」
と言っており、私はそのことをしっかりと覚えていました。


大学2年の時に、同級生からバイクを勧められ、教習所に通ってバイクの免許を取ったとき、母は「バイクの教習所代を出すとは言ってないから、そのお金は出さない」と言っていました。


自分としても、バイクは自分が勝手に言い出したことだったので、新聞店の給料を貯金して教習所代を捻出し、「バイクの免許取っておけば、車の免許取る時に学科がなくて教習所代が少なくなるから」と告げていました。


ところが、大学4年になっていざ車の免許を取ろうとした時に「そんなこと言ってない」と言い出したのです。

これには心底呆れ、「嘘を言うな!いいから払え!」と突き返しました。


結局、母は車の教習所代を出したのですが、最近兄から聞いた話では、この金は兄が出したそうです。

しかも「私がお金出してって言ったら、戻ってこないと思ってください」と言っていたそうで、兄が母に渡した金は返ってこなかったそうです。


ここまでくると、酷いとしか思えません。


当時の兄は、大学卒業後就職して初めて手にしたボーナスを、母に渡すことになってしまったそうです。


このようなことから、私はどうも母には良い印象が持てないまま、現在に至ります。


実家に帰れば普通に話はしますが、高校卒業後、お金を巡る数々の不審な点があり、親として認められない状態です。


また、10数年前に兄が結婚した際、家族で嫁の家に挨拶に行ったときも良い印象がありません。


母は、嫁の両親に対して意気揚々と「私は息子2人を立派に育て上げた」「自分は特に何もしていないのに、2人息子はそれぞれ自立して自分の道を進んでいった」と、自分の教育論を語っていました。


嫁の実家に挨拶に行って、自身の教育論自慢を語る母を、私はとても恥ずかしい思いで見ていました。


兄は結婚と同時に母と同居する道を選び、母も嫁を気に入り「やっとボロボロのあばら屋から引っ越せる」と喜んでいました。


半年程経過した時、兄から「母と別居することになった」と連絡がありました。
このような母ですので、やはり嫁と合わず、兄と嫁の新居で好き放題にやり、兄と嫁の怒りを買うことになったようです。


兄も母には愛想を尽かしていましたが、以前も書いとおり祖父も他界し、実家に母が一人で住むことになったことで、
兄には長男として負い目もあるのか、度々実家に帰っては母の様子を気にかけているようです。


現在の私は、母とも兄とも年に数回しか連絡を取っていません。
母の誕生日にLINEで簡単なメッセージを送っている程度です。

以前、誕生日に何も連絡をしなかったら「親の誕生日に連絡1つ寄越さない」と小言を言われましたので、とりあえず当たり障りのない言葉を送っています。


母のこうした言動が嫌で、自分も言いたいことはたくさんありますが、
もう面と向かって母と議論するような気持ちもないため、誕生祝い等連絡を取るときはかなり畏まった文章で送るようにしています。


仕事で取引先に送るような文章を書いていますが、ビジネス文章で送ることで、感情的にならずに事実を伝えられるのは良いことだと思っています。


ここまで母のことを長々と書いてきましたが、こうして並べてみると、やはり母を許したり受け入れることは、もうできないのだと分かりました。

裏切られた、期待に応えてくれなかった、という感情は、行き場がないままずっと残っています。
ただ、だからといって今更それを母本人にぶつけようとも思いません。


実家に帰ると、母と兄が酒を飲みながら毎回昔話をするのですが、その中で必ず母が「あなたが高校生の時、あんなことを言われた。。。」と語り出します。

高校生の頃、家にお金がなく進学の費用が出せない、と聞いたとき、私が思わず「こんな家に生まれなければ良かった」と言ったのですが、母は未だにそのことを根に持っているようです。

「あなたにあんなことを言われるなんて思ってもいなかった。。。」と涙ぐみながら語る姿を毎回見させられ、うんざりしています。


先日までリワークに通い、その活動の中でアサーションについて学び、自分を主語にした「Iメッセージ」を使うことで、相手に配慮しつつ自分の考えや意見を率直に伝える、ということを学びました。

私はもともとノンアサーティブで、言いたいことを言えず内に溜め込むタイプですが、リワークで何度か練習を重ねたことで、徐々にアサーティブな表現ができるようになりました。


ただ、母に対しては今後もアサーティブな表現はしないつもりです。

母は、息子に対して「あんなことを言われた。。。」と自分が辛かった、悲しかったことを率直に話しますが、私のことを訊こうとはしません。
自分が言いたいことをただ一方的に伝えているだけです。

ことあるごとに「あの時あの人にこう言われた」「この人がこう言っていた」と、他人のせいにするばかりで、いっこうに自分のことを省みようとしません。

これでは全くアサーティブなコミュニケーションを取ることはできません。


こんな母に対して、息子の自分はもう「健全で良好な親子関係」を築くのは無理だと思っています。

兄は、長男ということもあり、母のことを100%放っておくことはできないようです。

大学卒業後、一度は就職したものの仕事を辞め、勉強のために一度実家の世話になり、再度家を出た経緯もあるため、負い目に感じている様子です。

また、嫁との折り合いが悪かったことが原因とはいえ、一度は同居しようとした母を実家に戻すことになったことも気にしているようです。


自分の場合、次男で高校卒業後はずっと親元を離れており、経済的にも親の世話になっていなかったので、
今後も母に対しては当たり障りのない関係のままだと思います。

よく「親に感謝しなくてはいけない」とか「いなくなったら言いたいことも言えない」とか聞きますが、自分にとってはそのような親ではない、と判断しています。


今更、過去のさまざまな疑念を解決しようとも思いません。

母に問いただしたところでまともに取り合うことはないでしょうし、自分が納得できるとも思えません。

かといって、納得いくまで母と議論を続ける意欲ももうありません。


冷ややかな関係であれば、和解する必要はないと思います。

もしかしたら、いずれすべてのことを「もう許してもいいのかも」と思うかもしれませんが、それはその時が来たらで良いと思っています。

もしこのまま母ときちんと話をしないまま、どちらかの人生が終わることになったとしても、後悔しない覚悟があります。


今回、こうして外在化したことで、母に対する気持ちは整理する必要はなく、墓場まで持っていくと覚悟を決めたのだから、
もう母のことを色々と言う必要もないのでは、と気づきました。


過去のことについても、今こうして外在化したので、もうこれ以上追い求めなくても良いのかな、と感じています。


書籍で読みましたが、「ネガティブな外在化は一度だけ!」だそうです。

一度外在化したらもうおしまい。

まだまだ書きたい、終わらない場合は、外在化が足りないのだそうです。


今回、複数回に渡って家族関係のことを外在化してみて、もう家族のことは十分吐き出せたように思います。

家族以外の自分の仕事観や人生観については、まだまだ外在化したい内容もあるので改めて書きますが、
ひとまず家族についてはいったん区切ろうと思います。

これからも、家族とは距離を置いたまま生きようと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?