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目的の必要性と不必要性~組織と個人と人生~

目的地はなかった。
これは先日歩きまわったときの話。
振り返って色々なことを考えた。
この前の記事にも書いたように、感じたことはあったが、まだある気がした。

自分の中で引っかかったのは、「目的」という言葉。
今日はその「目的の必要性と不必要性」について組織と個人、人生に照らし合わせて考えたのでお話します。

〇目的の必要性

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自分が所属するチームでは、目的を、自分達の目指す最終到達点とした。
そして、目標を目的を達成するための具体的な手段。
その下に手段(戦略)としてより具体的な方策を設けている。

目的は自分達にとってどんな存在なのか。
これまでとは違う状況、揃って練習ができない等、イレギュラーが生じた今、はっきりと我々が立ち返る場所として存在を現した。
何をすべきか、どう動くか進む方向をはっきり示すものとなった。

目的とは、我々が進むべき方向を指し示してくれる的なのかもしれない。

しかし、過去に聞いたことのある声を思い出した。

「将来やりたいことがわからない。」
「やりたいことがない人にとって目的や目標って決めるの難しいよね。」

〇目的の不必要性

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そこで目的は必ずしも要るわけではないという考えも出てきた。

組織であれば、上の重要性で示したように指針となり立ち返る場所にもなる、迷った時の判断基準にもなるなど、「あった方がいい」「あるべきだ」と言う側に立つのかもしれない。

ただ、個人で考えたときに「必ずしも要るわけではない」という考えの割合は、組織の目的を考えたときに比べて大きくなった。

自分は幼い頃からサッカーというスポーツに出会い、これまで多くの経験をしてきた。それによって悔しい思いも、嬉しい思いも失敗も成功もしてきて、夢や目標というものも身近にあったような気がする。

今、こうして日常からサッカーのない状態になって、「自分からサッカーをとれば何が残るのか」であったり、「サッカーをしていなければ」ということについて考えることもある。「サッカーをしていなければ」ということに関しては、無限に広がる話な訳で、これといって解を出そうともしていないのだが、もし、サッカーに出会わず、何か1つのことに没頭することもなく「まあそれなりに」生活してきたら、きっと自分も「何したいかわかんないしな~」とぼやいていたのだろう。

となったときに、自己分析などで出てくる原体験とやらを無理矢理穿り出してきて、「自分のやりたいことはこれで、こんな人間になりたくて、だから…!こうなんだ!」なんて言い聞かせるのだろうか。

どうもしっくりこない。
そんな簡単に見つかりはしないと思う。

「とりあえずやってみる!」は自分も好きな行動規準だし良いと思うが、そのとりあえずやるのファーストタッチができないのが、やりたいことがわからない人の悩むべきポイントなのだろう。

となれば、目的とやらは、変に作りこんだもので、自分を機械にしてしまうものになる気もするから、必要性は感じなくなるのだ。

〇じゃあやりたいことがわからない人はどうするのか

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「わからない」「特にない」という人は「向き合ってないだけ」とは一概には言えない。
「向き合ってないだけ」と思う人も、言葉を吐き捨てたのではなく「きっとどこかに隠れている」という思いもある気がするから。

本当に難しい。

「とりあえずやってみる」の精神が自分を奮い立たせるほどの何かに出会うきっかけになるかもしれないし、そのまましっくりくるかもしれない。

ただ言えるのは、
目的がある人は、その目的に近づこうと様々な局面で選択する。
何かを選択するということは、何かを捨てることでもある。
それに対し、未だわからないという人は、その選択のあらゆる可能性を秘めている段階であり、決して真っ暗な局面ではないということ。

そんなことを考えていると、
一点を目指して枝分かれした選択肢のある人生じゃなくて、円の一番外側を回って色んな事に触れる人生も素晴らしい人生だなと思った。

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